人生の答えを探す旅⑩(最終回) 
2014/04/17 Thu. 02:32 [edit]
あらすじ:人生の答えを求めて仏教にたどり着いた。仏法とは阿弥陀仏の力によって死後の大問題を解決するための方法論を説いたものであった。人間はすべて罪悪深重の地獄行き。しかしそんな人間を「目当て」に「必ず救う」の誓いを立てた仏さん。僕が救われるための条件は「南無阿弥陀仏」と一回だけでも唱えるということ。しかし、言われた通り唱えても何も起こらない。果たして仏法は嘘かまことか。今回はゆとりさとるの求道物語です。
-- 続きを読む(このまま開きます) --
以下、これまでの9つの記事を簡潔にまとめてみました。
因果の道理によって、自分のやった行いはすべて自分に返ってくる。自己中心的な生き方しかできない人間は、その報いによって死後、地獄の苦しみを味わうことが必定であるという。それを生まれ変わり死に変わり、何度も何度も繰り返している僕らの姿を見かねた阿弥陀仏が、法蔵菩薩という修行僧に成り下がってすべての人を救う誓いを立てた。
たとえわが身を毒の中に沈めても、必ず果たし遂げる。果たし遂げなければ、誓って私は仏になりません。48の誓いをたてて、ついに法蔵菩薩は阿弥陀仏へと成仏した。それが十劫の昔であるという。
その48の誓いの18番目、阿弥陀仏の本願によって、人間は極楽浄土へと生まれ変わる身になれる。その本願には「たった一度でもいい、南無阿弥陀仏と唱えてくれ」という願いがこめられている。その仰せをそのままいただき、南無阿弥陀仏と唱える一念のとき、親鸞にして「不可称不可説不可思議(言葉で説明することのできない、人間の理解を超えた現象)」と言わしめた「仏の救い」に遭うことができるという。
以上。そしてここからが僕の体験記です。
2014年になって、僕はこの仏の救いという境地を求めて華光会という聞法の集まりに参加し(まじで1月1日から行った)、仏教とはなんであるかを聞いていった。
念仏も唱えてみた。しかし、よくわからない…。そもそも、こんな目にも見えないことを信じろっていうほうが無理があるじゃないか。因果の道理はたしかにまぁそうかなと思うけど、地獄とか、仏とか、極楽とか…。死んだらどうなるかなんて、推測することはできてもやっぱり確信なんて持てない。
こんな思考の繰り返しだった。もう諦めようとか、あの人たちはおかしいとか、自分は救われないんだろうなとか、何回思ったかわからない。
けれどそのたびに、
「でもここであきらめて元の生活に戻ったとして、何があるんだ?親鸞をはじめ、多くの人が仏の救いを目の当たりにして、絶対の幸福とまで言わせている。しかもそれが死んだ後にわかるんじゃなくて、ただいま現在はっきりするとまで言わせている…」
……。
やっぱり、あきらめきれなかった。どうしてもその境地を僕も味わいたかった。
そしてまた仏法とはなんであるか、仏さまが何を思い、願い、行動して、それが今の僕にどのように届いているのか、本で読んだり法話を聞いたり、法話集のCDを聞いたりDVDを見たり、念仏したり考えたり想像したり、とにかくやれることをやりまくった。
けどどうしてもわからなかった。仏法を信じる?信心?わからない…。なぜこんなおとぎ話を信じられるのか、まったくわからない。
そんな風になってくると、日常のストレス、人生のストレスを仏法に向けるようになった。こんなもののために今僕はこんなに苦しんでるんだ。仏教なんて聞かなきゃよかった。中途半端に宗教なんてものに手を出すんじゃなかった。できるなら、仏教に出会う前の自分に戻りたい。。
こんなことをずっと考えていた。相変わらず何をやってもこれという手応えはないし、人生を楽しむなんて立場と正反対のところにいるような気がした。
けど記憶をリセットすることもできず、かといって仏に救われるわけでもなく、しかし因果の道理という理屈が中途半端にわかるだけに死後のこともなんとなく恐い。
前にも進めず、かといって後ろにも戻れない。けどこのままじっとすることもできないという三重苦の中に僕は生きていた。
この三重苦の中で、唯一打開策を見出すところがあれば、それは因果の道理だと思った。
物事には原因があって結果がある。これはまぁいい。
しかし、だからといって死んだら地獄に行くというのはちょっと論理の飛躍もはなはだしいんじゃないか?と思うようになっていった。
地獄行き。ここだ。これがわからない。もうこの際、仏の救いやら何やらはどうでもいい。そんなことは勝手にやっといてくれ。僕には関係ない。
でも、「このまま生きてたら、死んだあと地獄に行く」、この一文だけが僕にはすさまじく邪魔な一文だった。これから仏法のことを忘れて生きるにしても、こんなことを言われっぱなしなんて気分が悪い。
そもそも、地獄行きだからどうしろっていうのだ?肉を食うな、魚を食うな、悪口を言うな、人を傷つけるな、しかもそういうことを心の中で一瞬たりとも想像したり罵倒したりするな?
ありえん。なんだそれ。
そんなことしたら、「人間辞めます」って言うのとほぼ同じじゃないか。
僕は人間だ。仏から見たら悪の塊、いいこと何一つもできないクズに見えるのかもしらんが、そんな僕でも一生懸命生きてるんだ。嫌なこと、つらいこと、我慢してきたことだってたくさんある。それをなんだ?地獄行き?ふざけるな!!
よく考えれば仏法なんてとんでもない悪趣味なものじゃないか。会に行けばみんなが口をそろえるようにして「自分は悪しかできないなぁ」なんてわかった風な顔して言ってる。なんだあいつら。ありえない。そうやって自分を卑下して傷のなめあいをしてるだけじゃないか。
もう我慢できない。会にいって、あそこの人たちにこの気持ちをぶつけてやろう。地獄行きなんて言われてたまるか。
僕はまるで全人類の気持ちを代弁するかぐらいの勢いで聴聞の会場に向かった。
僕「質問があります」
僕「みなさん口をそろえるように地獄行き、地獄行きとおっしゃいますが、それは本当にそう心から思って言ってるんですか?」
会の人「いや……自分は悪いことをしてるなんてつもりはないよ。たまに罪悪感にかられることはあるにはあるけど、普段は全くそんな意識はないよ」
僕「じゃあお経にそう書いてあるから、それを知識として言ってるわけですか?」
会の人「いや、知識でもない。」
僕「……。」
僕「感情でそう感じてるわけでもなく、知識で言ってるのでもなければ、じゃあなんなんですか!?」
僕「その地獄行きっていう言葉はどっから出るんですか!?」
僕「仮に……仮に仏法で言われていることが真実だとして、それでみなさんは納得できるんですか?おまえは地獄行きだ、なんてことを言われて!!」
僕「どんな風に言われようが、僕はこれまで一生懸命生きてきた。そりゃ突き詰めて言えばすべて自分のためかもしれない。でもそれの何が悪い?誰にも迷惑はかけてないし、我慢してきたことだってたくさんある!」
僕「僕は嫌だ。地獄行きなんて認められない。因果の道理が正しかったとしても、僕はそんなの断じて認めない!!!」
なんかアニメのセリフみたいですが、マジでこんなようなことを言いました。僕の不満はたまりにたまりまくってたからね。
けどこれが終わった後、隣にいたおばちゃんが「なんだか自分の気持ちを代弁してくれたみたいで、聞いててスッとしたわ~」って言ってくれた。ほらみろ、やっぱりみんな心の奥底ではそう感じてるんじゃないか。当たり前だ。地獄行きなんて認めてたら人間やってられないに決まってる。
僕はすがすがしい気持ちで会館を後にした。言ってやった。とうとう言ってやったぞ。仏法にここまで逆らったのは僕が初めてなんじゃないか?はっはっは。これでもう仏法は終わりだ。もう二度と仏法なんて聞くものか。
意気揚々と帰っていたのだけれど、でもそんな気持ちはすぐに冷めてきた。
「僕は……一体何をしに行ってたんだろう。あそこの人たちは仏法を喜んでいる集まりだというのに、そこに乗り込んでこんなこと言って、わけがわからないやつと思われたに違いない」
「なんだか反抗期みたいな気分だな……。反抗して、やりたいだけやってすっきりしたけど、でもなんも残ってない。」
「……」
駅について、ホームに降りる階段をとぼとぼと歩いていた。
「僕に仏法を聞く耳なんてない。それはもう決定事項だ。仏が救ってくれるなんて言われても疑う気持ちしかないし、地獄行きって言われたら反抗する気持ちしかわかない。僕には本当にそれしかない。ここまで一生懸命聴聞続けてきて、結局残ったのはそんな醜い自分の感情だけだった。」
「だから、もう僕は二度と仏法を聞くことはないだろうな…。」
「けれど…」
「けれどもし、もし仮にもう一度、仏法を聞く機会があったのなら」
「その時は、自分の気持ち・感情を差し置いて、ただただそのままに仏法を聞きたい。純粋に仏法を聞きたい。そんな風に聞けたら、きっといいんだろうな……」
……その瞬間!!その一瞬!!仏法に対する懺悔と、仏法という鏡に照らされた「本当の自分」に出会い、それを受け入れたその一念の起こったとき!!!
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」
…………!?
は……!?
今、何が起こった!?
自分の口から、念仏が「出」た。
僕は……念仏を唱えようなんて微塵にも思ってない。むしろ、仏法に縁のない自分であることに気づいて、念仏なんて今後一生涯、わずか一回たりとも唱えることなんてないだろうということに確信をもったくらいだ。
そんな僕が念仏を唱えている…?ありえない……。しかし今、とめどなく溢れてくるこの念仏はなんだ……。明らかに口が自分の意志で動いていない…。
しかしその時の僕は、これまでに感じたことがないくらいに心はおだやかで、春の風が透き通るように心を流れているのがわかった。
あぁそうか…。これは、僕が言ってるんじゃない。僕の中にいる阿弥陀さんが言ってるんだな…。
ありがたい…本当に、仏様は僕を見捨てずについていてくれたのか…。
ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。
そうして僕は仏法を信じる心を「もらった」。
以前まではあれほどに仏法をバカにして、疑いの気持ちしかなかったのに、そんな僕のちんけなプライドのようなものが「丸々切り取られてしまった」。
不思議だ…。これが言葉を超えた世界か…。
確かに、今ならわかる。なぜ自分が生まれたのか、なぜこの世界で生きているのか。人生の意味。
決して崩れない、絶対の幸福とまで呼ばれる境地。
死後でなく「今現在」はっきりわかる心。
仏法に偽りなし、すべて本当だった。いや、本当であると「信じる心をいただいた」。
世間虚仮 唯仏是真
以上が僕の体験記です。書き足りないところは、また後日に書いていこうかなぁって思います。
質問もあればなんでも聞いてください。
ひとまずこれにて人生の答えを探す旅、完結です。
因果の道理によって、自分のやった行いはすべて自分に返ってくる。自己中心的な生き方しかできない人間は、その報いによって死後、地獄の苦しみを味わうことが必定であるという。それを生まれ変わり死に変わり、何度も何度も繰り返している僕らの姿を見かねた阿弥陀仏が、法蔵菩薩という修行僧に成り下がってすべての人を救う誓いを立てた。
たとえわが身を毒の中に沈めても、必ず果たし遂げる。果たし遂げなければ、誓って私は仏になりません。48の誓いをたてて、ついに法蔵菩薩は阿弥陀仏へと成仏した。それが十劫の昔であるという。
その48の誓いの18番目、阿弥陀仏の本願によって、人間は極楽浄土へと生まれ変わる身になれる。その本願には「たった一度でもいい、南無阿弥陀仏と唱えてくれ」という願いがこめられている。その仰せをそのままいただき、南無阿弥陀仏と唱える一念のとき、親鸞にして「不可称不可説不可思議(言葉で説明することのできない、人間の理解を超えた現象)」と言わしめた「仏の救い」に遭うことができるという。
以上。そしてここからが僕の体験記です。
2014年になって、僕はこの仏の救いという境地を求めて華光会という聞法の集まりに参加し(まじで1月1日から行った)、仏教とはなんであるかを聞いていった。
念仏も唱えてみた。しかし、よくわからない…。そもそも、こんな目にも見えないことを信じろっていうほうが無理があるじゃないか。因果の道理はたしかにまぁそうかなと思うけど、地獄とか、仏とか、極楽とか…。死んだらどうなるかなんて、推測することはできてもやっぱり確信なんて持てない。
こんな思考の繰り返しだった。もう諦めようとか、あの人たちはおかしいとか、自分は救われないんだろうなとか、何回思ったかわからない。
けれどそのたびに、
「でもここであきらめて元の生活に戻ったとして、何があるんだ?親鸞をはじめ、多くの人が仏の救いを目の当たりにして、絶対の幸福とまで言わせている。しかもそれが死んだ後にわかるんじゃなくて、ただいま現在はっきりするとまで言わせている…」
……。
やっぱり、あきらめきれなかった。どうしてもその境地を僕も味わいたかった。
そしてまた仏法とはなんであるか、仏さまが何を思い、願い、行動して、それが今の僕にどのように届いているのか、本で読んだり法話を聞いたり、法話集のCDを聞いたりDVDを見たり、念仏したり考えたり想像したり、とにかくやれることをやりまくった。
けどどうしてもわからなかった。仏法を信じる?信心?わからない…。なぜこんなおとぎ話を信じられるのか、まったくわからない。
そんな風になってくると、日常のストレス、人生のストレスを仏法に向けるようになった。こんなもののために今僕はこんなに苦しんでるんだ。仏教なんて聞かなきゃよかった。中途半端に宗教なんてものに手を出すんじゃなかった。できるなら、仏教に出会う前の自分に戻りたい。。
こんなことをずっと考えていた。相変わらず何をやってもこれという手応えはないし、人生を楽しむなんて立場と正反対のところにいるような気がした。
けど記憶をリセットすることもできず、かといって仏に救われるわけでもなく、しかし因果の道理という理屈が中途半端にわかるだけに死後のこともなんとなく恐い。
前にも進めず、かといって後ろにも戻れない。けどこのままじっとすることもできないという三重苦の中に僕は生きていた。
この三重苦の中で、唯一打開策を見出すところがあれば、それは因果の道理だと思った。
物事には原因があって結果がある。これはまぁいい。
しかし、だからといって死んだら地獄に行くというのはちょっと論理の飛躍もはなはだしいんじゃないか?と思うようになっていった。
地獄行き。ここだ。これがわからない。もうこの際、仏の救いやら何やらはどうでもいい。そんなことは勝手にやっといてくれ。僕には関係ない。
でも、「このまま生きてたら、死んだあと地獄に行く」、この一文だけが僕にはすさまじく邪魔な一文だった。これから仏法のことを忘れて生きるにしても、こんなことを言われっぱなしなんて気分が悪い。
そもそも、地獄行きだからどうしろっていうのだ?肉を食うな、魚を食うな、悪口を言うな、人を傷つけるな、しかもそういうことを心の中で一瞬たりとも想像したり罵倒したりするな?
ありえん。なんだそれ。
そんなことしたら、「人間辞めます」って言うのとほぼ同じじゃないか。
僕は人間だ。仏から見たら悪の塊、いいこと何一つもできないクズに見えるのかもしらんが、そんな僕でも一生懸命生きてるんだ。嫌なこと、つらいこと、我慢してきたことだってたくさんある。それをなんだ?地獄行き?ふざけるな!!
よく考えれば仏法なんてとんでもない悪趣味なものじゃないか。会に行けばみんなが口をそろえるようにして「自分は悪しかできないなぁ」なんてわかった風な顔して言ってる。なんだあいつら。ありえない。そうやって自分を卑下して傷のなめあいをしてるだけじゃないか。
もう我慢できない。会にいって、あそこの人たちにこの気持ちをぶつけてやろう。地獄行きなんて言われてたまるか。
僕はまるで全人類の気持ちを代弁するかぐらいの勢いで聴聞の会場に向かった。
僕「質問があります」
僕「みなさん口をそろえるように地獄行き、地獄行きとおっしゃいますが、それは本当にそう心から思って言ってるんですか?」
会の人「いや……自分は悪いことをしてるなんてつもりはないよ。たまに罪悪感にかられることはあるにはあるけど、普段は全くそんな意識はないよ」
僕「じゃあお経にそう書いてあるから、それを知識として言ってるわけですか?」
会の人「いや、知識でもない。」
僕「……。」
僕「感情でそう感じてるわけでもなく、知識で言ってるのでもなければ、じゃあなんなんですか!?」
僕「その地獄行きっていう言葉はどっから出るんですか!?」
僕「仮に……仮に仏法で言われていることが真実だとして、それでみなさんは納得できるんですか?おまえは地獄行きだ、なんてことを言われて!!」
僕「どんな風に言われようが、僕はこれまで一生懸命生きてきた。そりゃ突き詰めて言えばすべて自分のためかもしれない。でもそれの何が悪い?誰にも迷惑はかけてないし、我慢してきたことだってたくさんある!」
僕「僕は嫌だ。地獄行きなんて認められない。因果の道理が正しかったとしても、僕はそんなの断じて認めない!!!」
なんかアニメのセリフみたいですが、マジでこんなようなことを言いました。僕の不満はたまりにたまりまくってたからね。
けどこれが終わった後、隣にいたおばちゃんが「なんだか自分の気持ちを代弁してくれたみたいで、聞いててスッとしたわ~」って言ってくれた。ほらみろ、やっぱりみんな心の奥底ではそう感じてるんじゃないか。当たり前だ。地獄行きなんて認めてたら人間やってられないに決まってる。
僕はすがすがしい気持ちで会館を後にした。言ってやった。とうとう言ってやったぞ。仏法にここまで逆らったのは僕が初めてなんじゃないか?はっはっは。これでもう仏法は終わりだ。もう二度と仏法なんて聞くものか。
意気揚々と帰っていたのだけれど、でもそんな気持ちはすぐに冷めてきた。
「僕は……一体何をしに行ってたんだろう。あそこの人たちは仏法を喜んでいる集まりだというのに、そこに乗り込んでこんなこと言って、わけがわからないやつと思われたに違いない」
「なんだか反抗期みたいな気分だな……。反抗して、やりたいだけやってすっきりしたけど、でもなんも残ってない。」
「……」
駅について、ホームに降りる階段をとぼとぼと歩いていた。
「僕に仏法を聞く耳なんてない。それはもう決定事項だ。仏が救ってくれるなんて言われても疑う気持ちしかないし、地獄行きって言われたら反抗する気持ちしかわかない。僕には本当にそれしかない。ここまで一生懸命聴聞続けてきて、結局残ったのはそんな醜い自分の感情だけだった。」
「だから、もう僕は二度と仏法を聞くことはないだろうな…。」
「けれど…」
「けれどもし、もし仮にもう一度、仏法を聞く機会があったのなら」
「その時は、自分の気持ち・感情を差し置いて、ただただそのままに仏法を聞きたい。純粋に仏法を聞きたい。そんな風に聞けたら、きっといいんだろうな……」
……その瞬間!!その一瞬!!仏法に対する懺悔と、仏法という鏡に照らされた「本当の自分」に出会い、それを受け入れたその一念の起こったとき!!!
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」
…………!?
は……!?
今、何が起こった!?
自分の口から、念仏が「出」た。
僕は……念仏を唱えようなんて微塵にも思ってない。むしろ、仏法に縁のない自分であることに気づいて、念仏なんて今後一生涯、わずか一回たりとも唱えることなんてないだろうということに確信をもったくらいだ。
そんな僕が念仏を唱えている…?ありえない……。しかし今、とめどなく溢れてくるこの念仏はなんだ……。明らかに口が自分の意志で動いていない…。
しかしその時の僕は、これまでに感じたことがないくらいに心はおだやかで、春の風が透き通るように心を流れているのがわかった。
あぁそうか…。これは、僕が言ってるんじゃない。僕の中にいる阿弥陀さんが言ってるんだな…。
ありがたい…本当に、仏様は僕を見捨てずについていてくれたのか…。
ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。
そうして僕は仏法を信じる心を「もらった」。
以前まではあれほどに仏法をバカにして、疑いの気持ちしかなかったのに、そんな僕のちんけなプライドのようなものが「丸々切り取られてしまった」。
不思議だ…。これが言葉を超えた世界か…。
確かに、今ならわかる。なぜ自分が生まれたのか、なぜこの世界で生きているのか。人生の意味。
決して崩れない、絶対の幸福とまで呼ばれる境地。
死後でなく「今現在」はっきりわかる心。
仏法に偽りなし、すべて本当だった。いや、本当であると「信じる心をいただいた」。
世間虚仮 唯仏是真
以上が僕の体験記です。書き足りないところは、また後日に書いていこうかなぁって思います。
質問もあればなんでも聞いてください。
ひとまずこれにて人生の答えを探す旅、完結です。
category: 求道
人生の答えを探す旅⑨ 
2014/04/10 Thu. 22:44 [edit]
今回は仏さんの心をもう少し噛み砕いて書いていきます。
-- 続きを読む(このまま開きます) --
前回の記事のお経エピソードを見て「はぁなるほど」と思った人はいないと思う。
七高僧のところで書いたように、これを原典として「仏が本当に言いたかったことはなんだったのか」が盛んに議論されてきたわけ。で、その解釈は親鸞の時代で一つの結末を迎えるわけなので、今回はその解釈のほうを述べたいと思います。
まず、なぜそもそも法蔵菩薩はすべての人を救おうと思ったのか、その必要性がどこにあるのか、というところ。
僕らは普段、意識するしないにかかわらず「自分の価値観」「自分のものさし」でもって物事の良し悪しを測ってるよね。犯罪をする人は悪い人、ボランティアをする人は良い人、今日のご飯はおいしかったとかまずかったとか。いろんなことを自分の基準で裁いていってるといってもいい。
仏教では、それら人間のなすこと言うこと思うことすべてが地獄行きの姿であると教えられてる。今日僕は家に帰ってきて手を洗ったけど、それも地獄の行い。ご飯食べるのも地獄の行い。野球見て「あー三振かー」って言ってるのも地獄の行い。「ごちそうさま」って言ってるのも地獄の行い。おやすみなさいって言って布団かぶるのも地獄の行い。呼吸してるのも地獄の行い。
これ聞いてどうですか。はぁあああ?って思わない?僕は思った。ありえん。
何がありえないかというと、そんなこと言われたら自分は本当に地獄行きみたいじゃないか、って思うわけよね。今こうしてブログ書くためにキーボード打ってるのも、その一つ一つが地獄行きの所業でしかないなんて信じられない。信じられないけど、仏教ではそう教えられている。
なんでそんな何気ない動作一つ一つまでもが地獄行きといえるのか?
そもそも仏教での善悪の基準とは何かというと、「自分に執着せず周りのためを思ってする行動」が善で、「自己中心的・自意識の塊でとる行動」が悪なんだよね。(これはかなり一面的な言い方ですが)
例えば洋服。今みなさん何かしら洋服を着ていると思う。僕も着ている。まぁ全裸の人もいるかもしれないけど、それは一時的なもんであって、一生全裸で過ごす人はいないでしょ。
どんだけ服に無頓着な人でも、夏物もあれば冬物もあるし、パジャマもあれば普段着もある。スーツもあれば下着もある。しかもその一つ一つにお気に入りがあって、他人の目も気になるし、年代を経るごとにも変わっていく。
そして服を買うにしても着るにしても、うまくいくときがいかないときがある。いいデザインの服が買えたらさっそく着てみたいし、自慢したい。けどそれが翌日バーゲンで半額になってたってわかったら、途端に腹立たしい。自分が出した金を返せって思う。前日までずいぶん喜んでたのにね。
それに、一度買った服はなかなか捨てられない。もう何年も着てないけど家にあるってのはたくさんあると思う。いつ着るのかもわからないくらいだけど、でも捨てようとまではいかない。なんかもったいない。
さらに、そのお気に入りの服の中でも優劣があって、ここ一番の勝負服と普通の服とがある。誰もそんなこと気にしてないのに同じ服で行ったら貧乏なやつって思われそうで嫌だとか、そういう心理が働くよね。
着るものだけでこれだけの心の動きがあって、ショーウインドウを見ては欲の心が起きて、他人の服や雑誌を見ては優越感だとか劣等感だとかを抱いて、捨てるのを惜しんだり、勝手に捨てられたら怒りの心もわいてくる。別に自分自身が傷つけられたわけでもないのに、服にシミをつけられただけですんごい嫌な顔をする。
こういうのがすべて悪だっていうわけ。すべて自己中心的で、自分だけがかわいい、自分を受け入れてほしい、認めてほしいの心しかない。服だけでここまで言えるわけだから、食事やらお金やら趣味やら仕事まで言い出したらもうきりがない。
24時間、大忙しで地獄行きの罪を作っているっていうのはこういうことなんですね。なんですねって言ってるけど僕がそう思ってるわけじゃないからね。あくまで「仏の目線」の話をしてます。
で、因果応報の道理によって縁がきたらその報いを受けるというわけ。ここでいう縁というのは死後のこと。魚を一匹食べたなら自分も魚に一回食べられなきゃいけない。そうじゃなきゃつりあいが取れないわけです。
そうやって自己中心的な生き方をしては報いを受けている哀れな姿をみて、法蔵菩薩は自分こそ必ず救ってみせると大きな誓いを立てられたというわけ。それが「願わくは、わたしも仏となリ、この世自在王仏のように迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。」ということ。
ではどうやって救うのか。法蔵菩薩は五劫(一劫は43億2000万年)の長い間、思いをめぐらしてどうすれば迷い、傷つけあっている命を救うことができるのかを考え抜いた。そして出来上がったのが「南無阿弥陀仏」という名号だtった。
南無阿弥陀仏っていうのは知らない人からするとただのどこぞの宗教の謳い文句くらいにしか見て取れないんだろうけど、これにはものすごい功徳がつまってて、釈迦がどれほどの長い時間その功徳をほめたたえようともたたえきれないとまで言わせたすごいものなんだよね。
具体的にどうすごいかというと、これ一つ唱えるだけで地獄行きの報いをすべて取り払ってくれて、しかも本来なら果てしのない時間をかけて修行しないと得られない真理の悟りを得て、死後は極楽へ確実に生まれさせてもらえるというすごいものなんだわ。
それは誰のおかげでそんなすごいものが出来上がったかというと、すべて法蔵菩薩の修行のおかげということ。
世自在王仏は「たとえばたったひとりで大海の水を升で汲み取ろうとして、果てしない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころをこめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しとげ、どのような願でも満たされないことはないであろう」といったけれど、法蔵菩薩は「たとえ身が毒に沈もうとも、努めて励んでやりとげます」と誓った。
その毒というのは、まさに今こうして生きている僕が日々生み出している地獄という名の毒なわけなんです。その報いはすべて自分が一身に受け止める。だから、どうか早く南無阿弥陀仏と唱えてくれ、というのが仏さんの心なわけです。
仏教は今生の生き方を否定したり、強制するものじゃない。生き方は自由でいいんです。価値観もひとそれぞれ。性格だって能力だって違うんだから、当たり前です。ただ、一度死んだら、生きていた間にせっせと築いた罪業の報いを受けるということ。これだけが仏さんの心配の種なわけです。地獄の苦しみはたとえることができない。例えられるような相応のものがないからです。仏さんはそれを知っているからこそ、南無阿弥陀仏という誰でも唱えられる形になって、十劫の昔から「早く我が名を呼んでくれー!」と叫び通しなわけです。
と、阿弥陀さんの心を解説しましたがどうでしょうか。僕はこれを聞いてもよくわかりませんでした。なんとなくありがたい話なんだなってのはわかるけど、でもだからどうしろと?という心が浮かんで離れなかった。南無阿弥陀仏と唱えろって言っても、普通に言っても全然何か変わったことがあるわけでもなし。
次回はそんな僕がいよいよ仏法が真実と知らされる時がやってきた場面について書きます。
前回の記事のお経エピソードを見て「はぁなるほど」と思った人はいないと思う。
七高僧のところで書いたように、これを原典として「仏が本当に言いたかったことはなんだったのか」が盛んに議論されてきたわけ。で、その解釈は親鸞の時代で一つの結末を迎えるわけなので、今回はその解釈のほうを述べたいと思います。
まず、なぜそもそも法蔵菩薩はすべての人を救おうと思ったのか、その必要性がどこにあるのか、というところ。
僕らは普段、意識するしないにかかわらず「自分の価値観」「自分のものさし」でもって物事の良し悪しを測ってるよね。犯罪をする人は悪い人、ボランティアをする人は良い人、今日のご飯はおいしかったとかまずかったとか。いろんなことを自分の基準で裁いていってるといってもいい。
仏教では、それら人間のなすこと言うこと思うことすべてが地獄行きの姿であると教えられてる。今日僕は家に帰ってきて手を洗ったけど、それも地獄の行い。ご飯食べるのも地獄の行い。野球見て「あー三振かー」って言ってるのも地獄の行い。「ごちそうさま」って言ってるのも地獄の行い。おやすみなさいって言って布団かぶるのも地獄の行い。呼吸してるのも地獄の行い。
これ聞いてどうですか。はぁあああ?って思わない?僕は思った。ありえん。
何がありえないかというと、そんなこと言われたら自分は本当に地獄行きみたいじゃないか、って思うわけよね。今こうしてブログ書くためにキーボード打ってるのも、その一つ一つが地獄行きの所業でしかないなんて信じられない。信じられないけど、仏教ではそう教えられている。
なんでそんな何気ない動作一つ一つまでもが地獄行きといえるのか?
そもそも仏教での善悪の基準とは何かというと、「自分に執着せず周りのためを思ってする行動」が善で、「自己中心的・自意識の塊でとる行動」が悪なんだよね。(これはかなり一面的な言い方ですが)
例えば洋服。今みなさん何かしら洋服を着ていると思う。僕も着ている。まぁ全裸の人もいるかもしれないけど、それは一時的なもんであって、一生全裸で過ごす人はいないでしょ。
どんだけ服に無頓着な人でも、夏物もあれば冬物もあるし、パジャマもあれば普段着もある。スーツもあれば下着もある。しかもその一つ一つにお気に入りがあって、他人の目も気になるし、年代を経るごとにも変わっていく。
そして服を買うにしても着るにしても、うまくいくときがいかないときがある。いいデザインの服が買えたらさっそく着てみたいし、自慢したい。けどそれが翌日バーゲンで半額になってたってわかったら、途端に腹立たしい。自分が出した金を返せって思う。前日までずいぶん喜んでたのにね。
それに、一度買った服はなかなか捨てられない。もう何年も着てないけど家にあるってのはたくさんあると思う。いつ着るのかもわからないくらいだけど、でも捨てようとまではいかない。なんかもったいない。
さらに、そのお気に入りの服の中でも優劣があって、ここ一番の勝負服と普通の服とがある。誰もそんなこと気にしてないのに同じ服で行ったら貧乏なやつって思われそうで嫌だとか、そういう心理が働くよね。
着るものだけでこれだけの心の動きがあって、ショーウインドウを見ては欲の心が起きて、他人の服や雑誌を見ては優越感だとか劣等感だとかを抱いて、捨てるのを惜しんだり、勝手に捨てられたら怒りの心もわいてくる。別に自分自身が傷つけられたわけでもないのに、服にシミをつけられただけですんごい嫌な顔をする。
こういうのがすべて悪だっていうわけ。すべて自己中心的で、自分だけがかわいい、自分を受け入れてほしい、認めてほしいの心しかない。服だけでここまで言えるわけだから、食事やらお金やら趣味やら仕事まで言い出したらもうきりがない。
24時間、大忙しで地獄行きの罪を作っているっていうのはこういうことなんですね。なんですねって言ってるけど僕がそう思ってるわけじゃないからね。あくまで「仏の目線」の話をしてます。
で、因果応報の道理によって縁がきたらその報いを受けるというわけ。ここでいう縁というのは死後のこと。魚を一匹食べたなら自分も魚に一回食べられなきゃいけない。そうじゃなきゃつりあいが取れないわけです。
そうやって自己中心的な生き方をしては報いを受けている哀れな姿をみて、法蔵菩薩は自分こそ必ず救ってみせると大きな誓いを立てられたというわけ。それが「願わくは、わたしも仏となリ、この世自在王仏のように迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。」ということ。
ではどうやって救うのか。法蔵菩薩は五劫(一劫は43億2000万年)の長い間、思いをめぐらしてどうすれば迷い、傷つけあっている命を救うことができるのかを考え抜いた。そして出来上がったのが「南無阿弥陀仏」という名号だtった。
南無阿弥陀仏っていうのは知らない人からするとただのどこぞの宗教の謳い文句くらいにしか見て取れないんだろうけど、これにはものすごい功徳がつまってて、釈迦がどれほどの長い時間その功徳をほめたたえようともたたえきれないとまで言わせたすごいものなんだよね。
具体的にどうすごいかというと、これ一つ唱えるだけで地獄行きの報いをすべて取り払ってくれて、しかも本来なら果てしのない時間をかけて修行しないと得られない真理の悟りを得て、死後は極楽へ確実に生まれさせてもらえるというすごいものなんだわ。
それは誰のおかげでそんなすごいものが出来上がったかというと、すべて法蔵菩薩の修行のおかげということ。
世自在王仏は「たとえばたったひとりで大海の水を升で汲み取ろうとして、果てしない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころをこめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しとげ、どのような願でも満たされないことはないであろう」といったけれど、法蔵菩薩は「たとえ身が毒に沈もうとも、努めて励んでやりとげます」と誓った。
その毒というのは、まさに今こうして生きている僕が日々生み出している地獄という名の毒なわけなんです。その報いはすべて自分が一身に受け止める。だから、どうか早く南無阿弥陀仏と唱えてくれ、というのが仏さんの心なわけです。
仏教は今生の生き方を否定したり、強制するものじゃない。生き方は自由でいいんです。価値観もひとそれぞれ。性格だって能力だって違うんだから、当たり前です。ただ、一度死んだら、生きていた間にせっせと築いた罪業の報いを受けるということ。これだけが仏さんの心配の種なわけです。地獄の苦しみはたとえることができない。例えられるような相応のものがないからです。仏さんはそれを知っているからこそ、南無阿弥陀仏という誰でも唱えられる形になって、十劫の昔から「早く我が名を呼んでくれー!」と叫び通しなわけです。
と、阿弥陀さんの心を解説しましたがどうでしょうか。僕はこれを聞いてもよくわかりませんでした。なんとなくありがたい話なんだなってのはわかるけど、でもだからどうしろと?という心が浮かんで離れなかった。南無阿弥陀仏と唱えろって言っても、普通に言っても全然何か変わったことがあるわけでもなし。
次回はそんな僕がいよいよ仏法が真実と知らされる時がやってきた場面について書きます。
category: 求道
人生の答えを探す旅⑧ 
2014/04/07 Mon. 19:58 [edit]
あらすじ:万人共通の生きる意味なんてあるんだろうか。それを求めて仏教の勉強会に足を運んだが、そこでは人間はみな一様に地獄行きであり、仏の救いによってその解決を図るのが人生の目的であるということが教えられていた。
さまざまな人の意見を聞くためほかの真宗の会に参加したが、そこでは多くの人が仏の救いという体験にあっていた。本当にそんなものがあるのかないのか、それを見極めるための僕の聞法が始まる。今回は仏さんが人間を救うためにどうしたのか、そのいわれについて書きたいと思います。
さまざまな人の意見を聞くためほかの真宗の会に参加したが、そこでは多くの人が仏の救いという体験にあっていた。本当にそんなものがあるのかないのか、それを見極めるための僕の聞法が始まる。今回は仏さんが人間を救うためにどうしたのか、そのいわれについて書きたいと思います。
-- 続きを読む(このまま開きます) --
さて、そんなわけで僕も仏の救いという体験が本当にあるのかないのか、とことんまで行ってみようということでひたすら聴聞に励んでいた。「仏教は聴聞(ちょうもん)に極まる」という言葉あって、よく「どうすれば救われますか?」という質問があるのだけれど、それは聴聞しかない(法座に出る・発言をする・書物を読む、など)ということなんだよね。
そうなるとじゃあ何を聴聞すればいいのか?ということになってくる。仏教って一口に言ってもその量は膨大で、お経だけでも全部で7000巻以上あるといわれてるし、その解釈をめぐっていろんな学者が見解を示した著書も含めるともうとてつもない分量になる。
そんな中で「これぞ釈迦が本当に言いたかったことだ」という部分を見極めて、後世に伝えてくれた人たちがいる。仏教の発祥の地であるインドから中国(シルクロード)そして日本へと渡ってくる中で、物理的にお経を運んでくれた人もそうだし、言葉を翻訳してくれた人もそうだし、そして何より仏の救いという極めて微妙で言葉で表現しきれないところを発見してくれた人たちがいた。
それが七高僧という人たち(気になる方は調べてみてください)で、この人たちなくして自分は仏の救いに遭うことはできなかったと親鸞は著書で述べている。
親鸞の著書ももちろんその七高僧の教えを受けて、さらにわかりやすく誤解の無いように後世の人たちに伝えるために書かれたものなんだけど、いろいろ経緯は省いて最終的に肝心なところだけいうと、親鸞は仏に救われるということを「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と言っている。
仏の願いについて、「なぜそんなことを願われたのか」「その内容はどういうものであるか」「その結果どうなったのか」を聞いて、「そのことに対して疑う気持ちが無くなったとき」、仏の救われるというわけ。
この疑う気持ちが無くなるのがすげえ難しいんだよーとかいう僕の感想や体験はまた今度書くとして、今回は仏願の生起本末について書きます。(大無量寿経というお経の抜粋です。これは阿難という弟子に釈迦が阿弥陀仏の功徳を説いているシーン)
釈迦「今からは考えることができないくらいはるか昔に、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏がいた。そのときある国にひとりの国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起し、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。才能にあふれ志は固く、世の人に超えすぐれていた。
この法蔵菩薩は、世の仏がた(※注:地球では釈迦だけが仏だけど、宇宙にはガンジス川の砂の数ほどの仏がいると言われている)をたてまつって、その功徳がとても広大であり、智慧もまた深くすぐれていることを讃嘆し、
『願わくは、わたしも仏となリ、この世自在王仏のように迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。』……
『わたしは誓う、仏となるときは、必ずこの願を果しとげ、生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう。』……
『わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。』……
『たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。』……
法蔵菩薩はこのように述べおわってから、世自在王仏に、<この通りです。世尊、わたしはこの上ないさとりを求める心を起しました。どうぞ、わたしのためにひろく教えをお説きください。わたしはそれにしたがって修行し、仏がたの国のすぐれたところを選び取り、この上なくうるわしい国土を清らかにととのえたいのです。どうぞわたしに、この世で速やかにさとりを開かせ、人々の迷いと苦しみのもとを除かせてください>と申しあげた。……
そこで世自在王仏は、法蔵菩薩の志が実に尊く、とても深く広いものであることをお知りになり、この菩薩のために教えを説いて、< たとえばたったひとりで大海の水を升で汲み取ろうとして、果てしない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころをこめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しとげ、どのような願でも満たされないことはないであろう >と仰せになった。……
そして法蔵菩薩のために、ひろく二百一十億のさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、菩薩の願いのままに、それらをすべてまのあたりにお見せになったのである。
そのとき法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。そして五劫(※注:一劫は43億2000万年)の長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取ったのである。……
そこで法蔵菩薩は、世自在王仏に向かって、<では、どうぞお聞きください。わたしの願を詳しく申し述べます> といって、次のような願を述べたのである。」
(一) わたしが仏になるとき、わたしの国に地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
(二)わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が命を終えた後、ふたたび地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
・
・
・
(十八) わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
・
・
・
(四十八) わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに音響忍・柔順忍・無生法忍を得ることができず、さまざまな仏がたの教えにおいて不退転の位に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
釈迦「そのとき法蔵菩薩は、この願を述べおわってから、次のように説いた。」
(重誓偈)
わたしは世に超えすぐれた願をたてた。必ずこの上ないさとりを得よう。
この願を果しとげないようなら、誓って仏にはならない。
わたしは限りなくいつまでも、大いなる恵みの主となり、
力もなく苦しんでいるものをひろく救うことができないようなら、
誓って仏にはならない。
わたしが仏のさとりを得たとき、その名はすべての世界に超えすぐれ、
そのすみずみにまで届かないようなら、誓って仏にはならない。
欲を離れて心静かに、清らかな智慧をそなえて菩薩の修行に励み、
この上ないさとりを求めて、天人や人々の師となろう。
不可思議な力で大いなる光りを放ち、果てしのない世界をくまなく照らして、
煩悩の闇を除き去り、多くの苦しむものをひろく救いたい。
智慧の眼を開いて無明の闇をなくし、
迷いの世界の門を閉じて、さとりの世界の門を開こう。
すべての功徳をそなえた仏となって、そのすぐれた輝きはすべ
ての世界に行きわたり、
太陽も月もその光りを奪われ、天人も輝きを隠すであろう。
人々のためにすべての教えを説き明かし、ひろく功徳の宝を与えよう。
常に人々の中にあって、獅子が吼えるように教えを説こう。
すべての仏がたを供養し、さまざまな功徳をそなえ、
願も智慧もそのすべてを満たし、世界中でもっともすぐれたものとなろう。
師の仏の何ものにもさまたげられない智慧がすべてを照らし尽すように、
願わくは、わたしの功徳や智慧の力も、このもっともすぐれた
仏のようでありたい。
この願いが果しとげられるなら、天も地もそれにこたえて打ち震え、
空からはさまざまな天人が美しい花を降らすであろう。
釈迦「法蔵菩薩が、このように述べおわると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせた。そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、< 必ずこの上ないさとりを開くであろう > とほめたたえた。ここに法蔵菩薩はこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのである。」
阿難が釈尊(※注:釈迦のこと)にお尋ねした。
「 法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか。あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか。それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか 」
釈尊が阿難に仰せになる。
「 法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたところにあって、名を安楽という 」
阿難がさらにお尋ねした。
「 その仏がさとりを開かれてから、どれくらいの時が経っているのでしょうか 」
釈尊が仰せになる。
「 さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っている。……」
と、いった具合です。(十八)のところに出てくる念仏っていうのは「南無阿弥陀仏」のことね。この南無阿弥陀仏という言葉の意味も今度書きます。あと法蔵菩薩っていうのは阿弥陀仏が人間に成り下がって出てきた仮の姿らしい。仏のままじゃ人間に声を伝える術がないから、菩薩になってこうして伝えてくれたと。
さて、このお経に書かれた法蔵菩薩のエピソードの真偽・解釈をめぐって、浄土真宗は何百年も大騒ぎしてる。それも親鸞が死んでから今までずっと、だいたい800年弱かな。
「これはただのおとぎ話だ」とか、「十劫の昔に法蔵菩薩はさとりを開いてるんだから、自分たちはすでに救われてるんだ」とか、「念仏さえ唱えていれば大丈夫だ」とか。
親鸞もこのことについて誤解が生まれやすいことを承知でよくよく聞き誤らないようにと著書を残しているわけだけど、その文章がまたいろいろな解釈ができるもんだから、結局みんなそれぞれの解釈で主張しあっている。言葉って難しいなぁ。
まぁ僕はそんな学問的な解釈の真偽なんてどうでもよくて、「自分の実感として本当に仏に救われるということがはっきりするのかどうか」というところだけが気になってたので、必然的に「それはもちろんはっきりする」って言ってる派閥のところに話を聞きにいってたというわけ。それをやってみて自分的に納得のいくものであればそれでよし、納得いかなれければ仏教はもういいやっていう。
仏願の生起本末を聞いてみなさんどうだったでしょうか。これを見た皆さんはもういつ仏に救われてもおかしくない状況にあるんだけど、そんな感覚ないぞ…という人のために次回からは僕が求道していくうえでもがき苦しんだところをいろいろと書き綴っていければなぁと思います。
ただし、どんな形で仏さんに救われるのかは本当に人それぞれです。電撃が走ったように南無阿弥陀仏が出てくる人もいれば、泣き崩れて仏さんを拝む人もいれば、「あっそうなん」ってな具合にぼんやりわかる人もいれば、長い時間かけてしみじみわかる人もいる。もちろんそこに至る過程も本当に千差万別です。なので僕の体験記を書くには書くけれど、「そういう風に思えたら自分も救われるのか」というような読み方はしないでください。
では次回へ続く。
さて、そんなわけで僕も仏の救いという体験が本当にあるのかないのか、とことんまで行ってみようということでひたすら聴聞に励んでいた。「仏教は聴聞(ちょうもん)に極まる」という言葉あって、よく「どうすれば救われますか?」という質問があるのだけれど、それは聴聞しかない(法座に出る・発言をする・書物を読む、など)ということなんだよね。
そうなるとじゃあ何を聴聞すればいいのか?ということになってくる。仏教って一口に言ってもその量は膨大で、お経だけでも全部で7000巻以上あるといわれてるし、その解釈をめぐっていろんな学者が見解を示した著書も含めるともうとてつもない分量になる。
そんな中で「これぞ釈迦が本当に言いたかったことだ」という部分を見極めて、後世に伝えてくれた人たちがいる。仏教の発祥の地であるインドから中国(シルクロード)そして日本へと渡ってくる中で、物理的にお経を運んでくれた人もそうだし、言葉を翻訳してくれた人もそうだし、そして何より仏の救いという極めて微妙で言葉で表現しきれないところを発見してくれた人たちがいた。
それが七高僧という人たち(気になる方は調べてみてください)で、この人たちなくして自分は仏の救いに遭うことはできなかったと親鸞は著書で述べている。
親鸞の著書ももちろんその七高僧の教えを受けて、さらにわかりやすく誤解の無いように後世の人たちに伝えるために書かれたものなんだけど、いろいろ経緯は省いて最終的に肝心なところだけいうと、親鸞は仏に救われるということを「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と言っている。
仏の願いについて、「なぜそんなことを願われたのか」「その内容はどういうものであるか」「その結果どうなったのか」を聞いて、「そのことに対して疑う気持ちが無くなったとき」、仏の救われるというわけ。
この疑う気持ちが無くなるのがすげえ難しいんだよーとかいう僕の感想や体験はまた今度書くとして、今回は仏願の生起本末について書きます。(大無量寿経というお経の抜粋です。これは阿難という弟子に釈迦が阿弥陀仏の功徳を説いているシーン)
釈迦「今からは考えることができないくらいはるか昔に、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏がいた。そのときある国にひとりの国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起し、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。才能にあふれ志は固く、世の人に超えすぐれていた。
この法蔵菩薩は、世の仏がた(※注:地球では釈迦だけが仏だけど、宇宙にはガンジス川の砂の数ほどの仏がいると言われている)をたてまつって、その功徳がとても広大であり、智慧もまた深くすぐれていることを讃嘆し、
『願わくは、わたしも仏となリ、この世自在王仏のように迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。』……
『わたしは誓う、仏となるときは、必ずこの願を果しとげ、生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう。』……
『わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。』……
『たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。』……
法蔵菩薩はこのように述べおわってから、世自在王仏に、<この通りです。世尊、わたしはこの上ないさとりを求める心を起しました。どうぞ、わたしのためにひろく教えをお説きください。わたしはそれにしたがって修行し、仏がたの国のすぐれたところを選び取り、この上なくうるわしい国土を清らかにととのえたいのです。どうぞわたしに、この世で速やかにさとりを開かせ、人々の迷いと苦しみのもとを除かせてください>と申しあげた。……
そこで世自在王仏は、法蔵菩薩の志が実に尊く、とても深く広いものであることをお知りになり、この菩薩のために教えを説いて、< たとえばたったひとりで大海の水を升で汲み取ろうとして、果てしない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころをこめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しとげ、どのような願でも満たされないことはないであろう >と仰せになった。……
そして法蔵菩薩のために、ひろく二百一十億のさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、菩薩の願いのままに、それらをすべてまのあたりにお見せになったのである。
そのとき法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。そして五劫(※注:一劫は43億2000万年)の長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取ったのである。……
そこで法蔵菩薩は、世自在王仏に向かって、<では、どうぞお聞きください。わたしの願を詳しく申し述べます> といって、次のような願を述べたのである。」
(一) わたしが仏になるとき、わたしの国に地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
(二)わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が命を終えた後、ふたたび地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
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(十八) わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
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(四十八) わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに音響忍・柔順忍・無生法忍を得ることができず、さまざまな仏がたの教えにおいて不退転の位に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
釈迦「そのとき法蔵菩薩は、この願を述べおわってから、次のように説いた。」
(重誓偈)
わたしは世に超えすぐれた願をたてた。必ずこの上ないさとりを得よう。
この願を果しとげないようなら、誓って仏にはならない。
わたしは限りなくいつまでも、大いなる恵みの主となり、
力もなく苦しんでいるものをひろく救うことができないようなら、
誓って仏にはならない。
わたしが仏のさとりを得たとき、その名はすべての世界に超えすぐれ、
そのすみずみにまで届かないようなら、誓って仏にはならない。
欲を離れて心静かに、清らかな智慧をそなえて菩薩の修行に励み、
この上ないさとりを求めて、天人や人々の師となろう。
不可思議な力で大いなる光りを放ち、果てしのない世界をくまなく照らして、
煩悩の闇を除き去り、多くの苦しむものをひろく救いたい。
智慧の眼を開いて無明の闇をなくし、
迷いの世界の門を閉じて、さとりの世界の門を開こう。
すべての功徳をそなえた仏となって、そのすぐれた輝きはすべ
ての世界に行きわたり、
太陽も月もその光りを奪われ、天人も輝きを隠すであろう。
人々のためにすべての教えを説き明かし、ひろく功徳の宝を与えよう。
常に人々の中にあって、獅子が吼えるように教えを説こう。
すべての仏がたを供養し、さまざまな功徳をそなえ、
願も智慧もそのすべてを満たし、世界中でもっともすぐれたものとなろう。
師の仏の何ものにもさまたげられない智慧がすべてを照らし尽すように、
願わくは、わたしの功徳や智慧の力も、このもっともすぐれた
仏のようでありたい。
この願いが果しとげられるなら、天も地もそれにこたえて打ち震え、
空からはさまざまな天人が美しい花を降らすであろう。
釈迦「法蔵菩薩が、このように述べおわると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせた。そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、< 必ずこの上ないさとりを開くであろう > とほめたたえた。ここに法蔵菩薩はこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのである。」
阿難が釈尊(※注:釈迦のこと)にお尋ねした。
「 法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか。あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか。それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか 」
釈尊が阿難に仰せになる。
「 法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたところにあって、名を安楽という 」
阿難がさらにお尋ねした。
「 その仏がさとりを開かれてから、どれくらいの時が経っているのでしょうか 」
釈尊が仰せになる。
「 さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っている。……」
と、いった具合です。(十八)のところに出てくる念仏っていうのは「南無阿弥陀仏」のことね。この南無阿弥陀仏という言葉の意味も今度書きます。あと法蔵菩薩っていうのは阿弥陀仏が人間に成り下がって出てきた仮の姿らしい。仏のままじゃ人間に声を伝える術がないから、菩薩になってこうして伝えてくれたと。
さて、このお経に書かれた法蔵菩薩のエピソードの真偽・解釈をめぐって、浄土真宗は何百年も大騒ぎしてる。それも親鸞が死んでから今までずっと、だいたい800年弱かな。
「これはただのおとぎ話だ」とか、「十劫の昔に法蔵菩薩はさとりを開いてるんだから、自分たちはすでに救われてるんだ」とか、「念仏さえ唱えていれば大丈夫だ」とか。
親鸞もこのことについて誤解が生まれやすいことを承知でよくよく聞き誤らないようにと著書を残しているわけだけど、その文章がまたいろいろな解釈ができるもんだから、結局みんなそれぞれの解釈で主張しあっている。言葉って難しいなぁ。
まぁ僕はそんな学問的な解釈の真偽なんてどうでもよくて、「自分の実感として本当に仏に救われるということがはっきりするのかどうか」というところだけが気になってたので、必然的に「それはもちろんはっきりする」って言ってる派閥のところに話を聞きにいってたというわけ。それをやってみて自分的に納得のいくものであればそれでよし、納得いかなれければ仏教はもういいやっていう。
仏願の生起本末を聞いてみなさんどうだったでしょうか。これを見た皆さんはもういつ仏に救われてもおかしくない状況にあるんだけど、そんな感覚ないぞ…という人のために次回からは僕が求道していくうえでもがき苦しんだところをいろいろと書き綴っていければなぁと思います。
ただし、どんな形で仏さんに救われるのかは本当に人それぞれです。電撃が走ったように南無阿弥陀仏が出てくる人もいれば、泣き崩れて仏さんを拝む人もいれば、「あっそうなん」ってな具合にぼんやりわかる人もいれば、長い時間かけてしみじみわかる人もいる。もちろんそこに至る過程も本当に千差万別です。なので僕の体験記を書くには書くけれど、「そういう風に思えたら自分も救われるのか」というような読み方はしないでください。
では次回へ続く。
category: 求道
人生の答えを探す旅⑦ 
2014/04/07 Mon. 19:43 [edit]
あらすじ:万人共通の生きる意味なんてあるんだろうか。それを求めて仏教の勉強会に足を運んだが、そこでは人間はみな一様に地獄行きであり、仏の救いによってその解決を図るのが人生の目的であるということが教えられていた。人生の目的とは「それ一つ果たせばいつ死んでも後悔がない」ということ。ぶっちゃけ暇だったしこれがホントだったらとんでもねーことなのでとりあえず続けて聞いてみることにした。今回は「③本当であるとして、それは自分にもわかることなのか?本当に今この場でハッキリするのか?」について書きます。
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死後の世界があるとかないとか、死んだら天国だとか極楽だとかって言ってる宗教、宗派、新興宗教みたいなものって山のようにあって、以前書いたようにキリスト教や神道なんかもそう。
で、それぞれの主張に対してその内容を見ていくと、確かにもっともらしいことは言ってる。言ってるけど、死後のこととか神の救いみたいなところまでいくと、やっぱり証明ができないところだから「あとは信じろ」みたいな感じになってしまってるんだよね。
信じる者は救われるっていうけど、でもそれって「妄信的にでもなんでもいいから、思い込んだ者勝ち」みたいなニュアンスになることがあって、それだったら麻薬とかやってるのと大差ないやんって思ってしまう。妄想でもなんでも膨らませて幸せになってるときと変わらない。
そんな中で、浄土真宗は「死んだらお助けの話ではない。今こうして生きている身でありながら極楽に往生することがはっきりわかる教えなのだ」と説いていて、難しい言葉でいうと「平生業成」って言う。僕が仏教に注目したのはこれがあったからだった。(この辺の話は以前の繰り返しです。すみません。)
前回まではなぜ仏教を聞き、なぜ仏の救いが必要なのかみたいな話をしてたけど、今回からようやく「どうすれば救われるか」の話になります。すさまじく重要で、わかる人はすぐにわかるし、わからない人は2,30年聞いててもわからない話みたいです。
ちなみにこの「どうすれば」の解釈の部分をめぐって、浄土真宗の中でもいくつも派閥が分かれてる。詳しくはまた書けたら書きます。
僕が最初に教わったS会というところでは「善のすすめ」がその答えだって言われてた。因果の道理で自分が悪しかできないって言われても信じられないけど、それは善をやったことがないからだ。本当に真剣に善をやった者のみ、自分が悪しかできないことがわかる、みたいな話だったかな。
僕もそれを聞いてなるほどと思ったけど、別にそこまでしなくても自分は悪いこと、悪い心は起きてるなぁって自覚はなんとなくあったし、善をやろうって気にもならない(そもそも善ってなんやねんって言うと、具体的にはほかの人にこの教えを勧めろっていう内容だったけど、なんだかねずみ講的だなと思った)ので微妙だった。
なのでそれから僕はほかの先生を探して別の解釈を聞きにいこうと思った。それがダメならダメで別にいいし、妄信的に「これを信じるんだ!」というよりも、いろいろやってみて自分に合うのがあればいいやって感じだったので。もちろん、いろいろやってみた結果仏教はやっぱアカンなと思ったらそれはそれで別によかったしね。
あと、僕がほかのところに話を聞きにいこうと思ったもう一つの理由は、そのS会では「ついに自分は救われた」という人がいなかったからだった。「人生かけて取り組むべきことであって、そんな簡単に救われる話じゃないぞ!」とか言われても僕はてっとり早く救われたかったから嫌だった。なのでこの仏の救いについて熱心に活動をしているという、華光会というところに今度はいってみることにした。
それが去年の年末あたりです。わりと最近です。
電話してみると、20代のお姉さんが電話に出てくれた。
僕「仏教の話を聞きに行きたいんですけどもー」
「あぁ~どうぞどうぞ、今は年末なのでやってないですけど、お正月にも集まりはありますし、一月にも何度か法要がありますよ」
僕「あぁそうですか…(それはHPを見て知ってる)。ところで……。あなたは、仏さんに救われたんですか?(かなりドキドキしながら聞いた)」
「え?あぁ~はい~」
僕「えぇええええええ!?まじっすか!!??(まじかよ!!!??)じゃあ死んだら極楽に行くんですか????」
「そうですね~阿弥陀さんにおまかせしてます~」
僕は…僕はショックだった…。それまでのS会での勉強会っていうのは、なんていうかあくまで仏教ワールドっていう世界観を楽しんでるくらいの感覚で、「そんな救いなんて本当はありっこないよなぁ~」って心の底では思ってた。まぁそれが普通だと思う。
それが……。この電話の人、僕とそんな年も変わらんのに…まじで救われるとか言っちゃってるよ…。ありえねぇええええええええええええええ。
でも妙に興奮してた気がする。ほんとなのか!?っていう疑いもそうだし、マジであったんか…っていう驚きもあった。
それからの僕というのはその会の法座に度々参加して、(そこは勉強会というより、先生の法話を聞いて参加者がどう思ったかを座談するような形だった。そういうスタイルのほうが僕にとっては楽しい)、本当に弥陀の救いというものがあるのか?仏教は真実なのか?ということを毎日のように考える生活だった。
会に参加した時はそこの人たちのことはもちろんよく観察してた。「こいつらただの思い込みちゃうか…」とか、「洗脳されてんじゃね」とか、「結局はこの世の幸せを追い求めるんとちゃうの?」とか。
でも、これはなんというかもう雰囲気というかオーラみたいなもんだから言葉にしようがないけど、「この人たちはあくまでこの人たちらしく、自然に生きていく中で、まじで仏の救いを実感してやがる…。明らかに自分の言動とか思考とかと、単純に価値観が違うとかいう次元で説明しきれない何かがある…。」って思った。
その人たちは明らかに共通の「これ」っていう感覚を持っていて、そして自分にはない。そんな雰囲気を察知した。僕はそれなりに仏教のことは勉強はしてたので、僕が言うことも間違いではないはずなんだけど、なーーーんか違った。と同時に、「ここはマジのマジもんで本物なのかもしれない…。」っていう期待感もわいてきてた。期待しすぎるとあとが怖いけど、でもここでやめてもしょうがないし、いくところまでいったれ!って感じだった。この人たちの境地に自分もたどり着いてみたい。
そこの会が出してる本とか、あとHPにも法話があるんだけどそれを読んだりして、「どうすれば自分にそんな仏の救いなんてものがわかるんだ…」って悩む日々だった。正直かなりつらくて精神的にもきつかったな。まぁそれだけ自分が本気で取り組んでたってことなのかも。
で、僕もついにその救いに「遭う」体験をしたわけですが、ああぁああああああ!!今回は「③本当であるとして、それは自分にもわかることなのか?本当に今この場でハッキリするのか?」について書く予定だったのに完全に前ふりで終わってしまいましたすみません。
次回こそ必ず仏さんの救いの内容について詳しく書きます。次の記事書くまで死にませんように。
で、それぞれの主張に対してその内容を見ていくと、確かにもっともらしいことは言ってる。言ってるけど、死後のこととか神の救いみたいなところまでいくと、やっぱり証明ができないところだから「あとは信じろ」みたいな感じになってしまってるんだよね。
信じる者は救われるっていうけど、でもそれって「妄信的にでもなんでもいいから、思い込んだ者勝ち」みたいなニュアンスになることがあって、それだったら麻薬とかやってるのと大差ないやんって思ってしまう。妄想でもなんでも膨らませて幸せになってるときと変わらない。
そんな中で、浄土真宗は「死んだらお助けの話ではない。今こうして生きている身でありながら極楽に往生することがはっきりわかる教えなのだ」と説いていて、難しい言葉でいうと「平生業成」って言う。僕が仏教に注目したのはこれがあったからだった。(この辺の話は以前の繰り返しです。すみません。)
前回まではなぜ仏教を聞き、なぜ仏の救いが必要なのかみたいな話をしてたけど、今回からようやく「どうすれば救われるか」の話になります。すさまじく重要で、わかる人はすぐにわかるし、わからない人は2,30年聞いててもわからない話みたいです。
ちなみにこの「どうすれば」の解釈の部分をめぐって、浄土真宗の中でもいくつも派閥が分かれてる。詳しくはまた書けたら書きます。
僕が最初に教わったS会というところでは「善のすすめ」がその答えだって言われてた。因果の道理で自分が悪しかできないって言われても信じられないけど、それは善をやったことがないからだ。本当に真剣に善をやった者のみ、自分が悪しかできないことがわかる、みたいな話だったかな。
僕もそれを聞いてなるほどと思ったけど、別にそこまでしなくても自分は悪いこと、悪い心は起きてるなぁって自覚はなんとなくあったし、善をやろうって気にもならない(そもそも善ってなんやねんって言うと、具体的にはほかの人にこの教えを勧めろっていう内容だったけど、なんだかねずみ講的だなと思った)ので微妙だった。
なのでそれから僕はほかの先生を探して別の解釈を聞きにいこうと思った。それがダメならダメで別にいいし、妄信的に「これを信じるんだ!」というよりも、いろいろやってみて自分に合うのがあればいいやって感じだったので。もちろん、いろいろやってみた結果仏教はやっぱアカンなと思ったらそれはそれで別によかったしね。
あと、僕がほかのところに話を聞きにいこうと思ったもう一つの理由は、そのS会では「ついに自分は救われた」という人がいなかったからだった。「人生かけて取り組むべきことであって、そんな簡単に救われる話じゃないぞ!」とか言われても僕はてっとり早く救われたかったから嫌だった。なのでこの仏の救いについて熱心に活動をしているという、華光会というところに今度はいってみることにした。
それが去年の年末あたりです。わりと最近です。
電話してみると、20代のお姉さんが電話に出てくれた。
僕「仏教の話を聞きに行きたいんですけどもー」
「あぁ~どうぞどうぞ、今は年末なのでやってないですけど、お正月にも集まりはありますし、一月にも何度か法要がありますよ」
僕「あぁそうですか…(それはHPを見て知ってる)。ところで……。あなたは、仏さんに救われたんですか?(かなりドキドキしながら聞いた)」
「え?あぁ~はい~」
僕「えぇええええええ!?まじっすか!!??(まじかよ!!!??)じゃあ死んだら極楽に行くんですか????」
「そうですね~阿弥陀さんにおまかせしてます~」
僕は…僕はショックだった…。それまでのS会での勉強会っていうのは、なんていうかあくまで仏教ワールドっていう世界観を楽しんでるくらいの感覚で、「そんな救いなんて本当はありっこないよなぁ~」って心の底では思ってた。まぁそれが普通だと思う。
それが……。この電話の人、僕とそんな年も変わらんのに…まじで救われるとか言っちゃってるよ…。ありえねぇええええええええええええええ。
でも妙に興奮してた気がする。ほんとなのか!?っていう疑いもそうだし、マジであったんか…っていう驚きもあった。
それからの僕というのはその会の法座に度々参加して、(そこは勉強会というより、先生の法話を聞いて参加者がどう思ったかを座談するような形だった。そういうスタイルのほうが僕にとっては楽しい)、本当に弥陀の救いというものがあるのか?仏教は真実なのか?ということを毎日のように考える生活だった。
会に参加した時はそこの人たちのことはもちろんよく観察してた。「こいつらただの思い込みちゃうか…」とか、「洗脳されてんじゃね」とか、「結局はこの世の幸せを追い求めるんとちゃうの?」とか。
でも、これはなんというかもう雰囲気というかオーラみたいなもんだから言葉にしようがないけど、「この人たちはあくまでこの人たちらしく、自然に生きていく中で、まじで仏の救いを実感してやがる…。明らかに自分の言動とか思考とかと、単純に価値観が違うとかいう次元で説明しきれない何かがある…。」って思った。
その人たちは明らかに共通の「これ」っていう感覚を持っていて、そして自分にはない。そんな雰囲気を察知した。僕はそれなりに仏教のことは勉強はしてたので、僕が言うことも間違いではないはずなんだけど、なーーーんか違った。と同時に、「ここはマジのマジもんで本物なのかもしれない…。」っていう期待感もわいてきてた。期待しすぎるとあとが怖いけど、でもここでやめてもしょうがないし、いくところまでいったれ!って感じだった。この人たちの境地に自分もたどり着いてみたい。
そこの会が出してる本とか、あとHPにも法話があるんだけどそれを読んだりして、「どうすれば自分にそんな仏の救いなんてものがわかるんだ…」って悩む日々だった。正直かなりつらくて精神的にもきつかったな。まぁそれだけ自分が本気で取り組んでたってことなのかも。
で、僕もついにその救いに「遭う」体験をしたわけですが、ああぁああああああ!!今回は「③本当であるとして、それは自分にもわかることなのか?本当に今この場でハッキリするのか?」について書く予定だったのに完全に前ふりで終わってしまいましたすみません。
次回こそ必ず仏さんの救いの内容について詳しく書きます。次の記事書くまで死にませんように。
category: 求道
人生の答えを探す旅⑥ 
2014/04/01 Tue. 00:02 [edit]
あらすじ:万人共通の生きる意味なんてあるんだろうか。それを求めて仏教の勉強会に足を運んだが、そこでは人間はみな一様に地獄行きであり、仏の救いによってその解決を図るのが人生の目的であるということが教えられていた。人生の目的とは「それ一つ果たせばいつ死んでも後悔がない」ということ。ぶっちゃけ暇だったしこれがホントだったらとんでもねーことなのでとりあえず続けて聞いてみることにした。今回は「②そうであるとして、仏の言っていることは本当なのか?」について書きます。
-- 続きを読む(このまま開きます) --
人生の答えを探す旅④で書いたことの解説を今回は主にやりたいと思います。
まず、因果の道理。これは全ての物事には原因があるという話だった。
確かにまぁ、持ってるものを手放せば落ちるけどそれは重力という原因があるわけだし、そういう科学的なことはもちろんのこと、人間関係のトラブルとか普段、運がいいやら悪いやらって言ってることも、突き詰めれば確かに原因はあるんだと思う。それが人間に解明しきれるかどうかは別として。
この因果の道理というのは正しくは「因縁果の道理」というものらしい。因(原因)だけでは結果は現れない、その結果に結びつく「縁」(機会)が必要ということ。たとえるならば因が植物の種子で、縁は土や光や水、結果はその植物が成長するということ。種子だけでは芽は出ないし、水や土だけがあってももちろん植物は生まれない。その2つが揃って初めて一つの結果になるということらしい。
なるほどなぁ。確かに悪いことをしてもバレなきゃなんとかなるわけだけど、これは因があっても縁がない状態ってわけだ。あとはいい指導者に師事しているけど全然結果が出ないなんてことがあるけど、これは縁があっても因がないっつーわけだな。そして因果応報とあるように、悪いことをやると必ず悪い結果が返ってくるし(悪因悪果)、良い事をすればそれが必ず因となって、いつか縁に触れた時に芽がでる(善因善果)らしい。
これは正直、そうだと思う。というかそうじゃなきゃやってられない。悪いことやってもバレなきゃOKってのは悔しいし、良い事しても何の意味もありませーんってのも理不尽だ。やっぱりそこの精算はきっちりやってほしいなって思ってたけど、仏教の話からすると大丈夫っぽい。この方が公平な感じがするし、自分の努力も無駄じゃないんだなぁって思える。
で、この因果の道理が正しいとすると、それが人生についても言えるらしい。今の自分というものがあるというのは一つの結果で、いわば植物の芽が出た状態なわけだ。ということはその植物の種子にあたるものがかつてあったということだよな。それが前世…仏教では過去世って言うらしいけど、そういうもんらしい。
うーーーーん……。まぁ、この話はとりあえず賛成でも反対でもない。というかわからない。そうと言われればそうな気もするし、違うと言われればそれもそうだなと思う。ただまぁ因果の道理ってのは正しそうな感じはあるから、前世もあるんかなぁ…。
もし過去世があるんだとすると、逆に未来世もあるってことになる。こっちは、今現在自分がやってることが種子(因)となって、死という縁にふれて、死後に結果となって現れるものなんだって。
うぅーーーーむ……。死んだら無になるんじゃないのか…?と、ずっと思ってはいたけど、でもそれだと納得のいかないことが僕には一つだけあった。これは仏教の話とは関係ないんだけど、なんで人間って自殺できないんだろうなっていうこと。いやまぁ実際やってる人はいるけど、少なくとも僕は自殺しようなんて気に全くならない。自殺してやる!ってやけくそになることはあってもほんとにやったことなんてない。あったらこの記事はありません。
自殺したくない、っていうことは生きたい・生きる意味があるということなんじゃないかなぁっていう予感が僕にはあった。あってほしい、と言う方が正確か。だから死後に無になるっていう考えは、なんだか今の自分の生きてる感覚が全て否定されるような感じがあった。死んだら無になるなら今すぐ自殺してもいいじゃないか、っていうこともあるしね。
そんなわけでこの因果の道理と過去世未来世の話は、まぁ総合すると7割くらいそうかもしれんって思えるかなという感じだ。100%って感じにはなれないな。因果の道理はかなり正しいと思うけどね。
ほんで?じゃあ人間は死後にどうなるか、か…。ふむ、これはなかなか興味深い。とりあえず仏教の見解の聞いてみたい。
仏「全員地獄行き」
…は?
なんで?意味がわからん。どういう理屈や。
以下解説。
仏教では人間の善悪を判断する際に、最も重要としていることがあります。それは「心が何を思っているか」です。人間のやることは大別すると「体でやったこと」「口で言ったこと」「心で思ったこと」の3つとなります。前2つの「体でやったこと」「口で言ったこと」というのは人間の目線からすると非常にわかりやすいのですが(法律や裁判の基準も体で何をやったか、口で何を言ったかの2つである)、仏教ではあまり重要視されていません。
なぜなら、その2つはどちらも「心で思ったこと」から派生するものだからです。心で全く思ってないことを体はしませんし、口もいいません。しかし体や口が動かなかったとしても、心の中では盛んに感情が揺れ動いています。酔っ払って上司の悪口を言ったりするのがわかりやすい具体例です。なので、体や口は火の粉であり、心は火の元と言っていいでしょう。
なので、未来がどうなるかは今の自分の心がどうであるかを見つめればいいということです。人に悪口を言ったり殺人を犯したりするのはもちろん将来にその報いが返ってきますが、それよりももっと恐ろしいのは「心で何を思っているか」です。
親を、兄妹を、友達を、先生を、通り過ぎる人のことを、心の中で鬱陶しいと思ったり憎いと思ったことはないでしょうか。もしあるならば、それは報いとなって自分を苦しめる結果になります。そこまで仏さまは見抜いた上で、人間はみな地獄行きであると判断しています。
地獄とは、そういう世界があるわけではありません。あくまで自分のやったことが返ってくるだけです。しかし人間は例外なく心に悪を造り続けているので、その報いは個々それぞれ違いますが、ひっくるめて地獄という名称が使われています。
……。
なるほど…因果応報の法則からいくと、自分がやったことは自分に返ってくる。例えば魚を一匹食べれば、単純に考えると自分も魚に一回食われなきゃバランスが取れない。そういうことなわけか?
しかもそういう体の行いじゃなくて、心の方が重要だって言ってる。これは正直、結構良い事も考えてるぞ~とか最初は思ってたけど、しばらく自分の心を見つめている内に全くそんなことがないことがわかった。
愚痴とか怒りとか嫉妬が湧いてきたときはもちろんわかりやすく悪だけど、相手のためを思って自分が何かするときとかも、よくよく考えると自分のためにやってんじゃね?っていうことに気づけるようになってきた。自分は相手にお礼を言われたり、感謝されたり、お返しをもらったりお金をもらったり、そういうことしか頭に無かったんだなって思う。
実際、何かやってあげても相手がそれをどうでもいい的な感じで流してきたらムカつくしね。こっちの時間返せよってなる。なるほど…自分のことしか考えてないな。今までのことも振り返ってみると、結局自分のことしか考えてこなかったかもしれない。
でもそれが悪…悪なのか?別に誰かに迷惑をかけてるわけじゃない。それに誰だって自分のことが一番だ。確かに相手のことを気遣うことが出来るのなんて余裕がある時だけかもしれないけど、でも別にいいじゃないか。結果的に相手が喜んで自分もその笑顔を見て嬉しいと思うなら、誰も損してない。自分は悪いことなんてしてない。してないはずだ…。
この因果の道理と地獄行きという話を聞いて、僕が最後まで引っかかっていたのがここだった。
因果の道理はわかる。物事には原因がある。だから今やってること、今自分が心に思うことが未来に返ってくる。これもわかる。そして自分は自分のことばっかり考えてる。これもわかる。
でも……地獄行きは言い過ぎじゃないか…?しかし釈迦はなんだったか名前はしらんけどどっかのお経に
「心常念悪 口常言悪 体常行悪 曾無一善」って書いてあって、これの意味は
「心は常に悪をおもい、口は常に悪をいい、体は常に悪をぎょうじ、いまだかつて一つの善も無い」
というものだった。
善がない…。しかも僕だけでなく、人類全体を見てそう言ってるわけだよね。まじか…。えぇ~…?うっそぉ…。
うーーーーーむ。これは、とりあえず言ってる内容は理解できるけど、よくわからん。僕は自分のことしか考えてないところまではわかるけど、それが悪だとは思えない…。地獄に行くような悪いこととは思えない…。これは保留としておこう。
そして次に仏さんは「そんな人間を必ず救う」って言ってるらしい。
……。
どこで書かれたものか知らんが、なかなか良く出来ているお伽話だと思った。でもまぁ救ってくれる分にはこっちには損はないし、どうぞ勝手に救ってくださいとしか思えない。
けれど…。僕が仏教を聞き続けようと思った最大の理由、それは「この救いが、今現在ハッキリとわかるということ」だ。親鸞が浄土真宗をうちたてて生涯をかけて伝えようとしたものは、この仏の救いただひとつだったらしい。それは「死んだらお助け」とか「いつも仏さんが見守ってくれてるよー」みたいな童話でもなく、極めて現実的に、大まじめに人間の生きる意味とは何なのかについて取り組んでいった人間の言葉だった。
僕が求めるものも、人間についての解釈とか批判とか、あるいは天地創造の宇宙論とかそんなことじゃない。「これが人間に生まれた意味だったのか!」って充実感と達成感と満足感に溢れて、そして今のこのどうしようもない人生を、確かな手応えをもって生きていきたい一心だった。
本当に……本当にそんなはっきりとわかる、手応えのある救いなんてものがあるのか??自分が救われたかどうかははっきりわかるのかどうか?という質問について、親鸞は「必ずはっきりわかる」と断言している。親鸞という人物がどんなもんかは知らないけど、とりあえずそこまで断言しているのは事実だった。
じゃあどうやったらそんなはっきりとわかるのか?仏に救われる境地なんてものにどうすればなれるんだ?
これが当然出てくる疑問だよね。次回はここについて詳しく解説して、「③本当であるとして、それは自分にもわかることなのか?本当に今この場でハッキリするのか?」についても書ければなぁと思っとります。
次回お楽しみに。
人生の答えを探す旅④で書いたことの解説を今回は主にやりたいと思います。
まず、因果の道理。これは全ての物事には原因があるという話だった。
確かにまぁ、持ってるものを手放せば落ちるけどそれは重力という原因があるわけだし、そういう科学的なことはもちろんのこと、人間関係のトラブルとか普段、運がいいやら悪いやらって言ってることも、突き詰めれば確かに原因はあるんだと思う。それが人間に解明しきれるかどうかは別として。
この因果の道理というのは正しくは「因縁果の道理」というものらしい。因(原因)だけでは結果は現れない、その結果に結びつく「縁」(機会)が必要ということ。たとえるならば因が植物の種子で、縁は土や光や水、結果はその植物が成長するということ。種子だけでは芽は出ないし、水や土だけがあってももちろん植物は生まれない。その2つが揃って初めて一つの結果になるということらしい。
なるほどなぁ。確かに悪いことをしてもバレなきゃなんとかなるわけだけど、これは因があっても縁がない状態ってわけだ。あとはいい指導者に師事しているけど全然結果が出ないなんてことがあるけど、これは縁があっても因がないっつーわけだな。そして因果応報とあるように、悪いことをやると必ず悪い結果が返ってくるし(悪因悪果)、良い事をすればそれが必ず因となって、いつか縁に触れた時に芽がでる(善因善果)らしい。
これは正直、そうだと思う。というかそうじゃなきゃやってられない。悪いことやってもバレなきゃOKってのは悔しいし、良い事しても何の意味もありませーんってのも理不尽だ。やっぱりそこの精算はきっちりやってほしいなって思ってたけど、仏教の話からすると大丈夫っぽい。この方が公平な感じがするし、自分の努力も無駄じゃないんだなぁって思える。
で、この因果の道理が正しいとすると、それが人生についても言えるらしい。今の自分というものがあるというのは一つの結果で、いわば植物の芽が出た状態なわけだ。ということはその植物の種子にあたるものがかつてあったということだよな。それが前世…仏教では過去世って言うらしいけど、そういうもんらしい。
うーーーーん……。まぁ、この話はとりあえず賛成でも反対でもない。というかわからない。そうと言われればそうな気もするし、違うと言われればそれもそうだなと思う。ただまぁ因果の道理ってのは正しそうな感じはあるから、前世もあるんかなぁ…。
もし過去世があるんだとすると、逆に未来世もあるってことになる。こっちは、今現在自分がやってることが種子(因)となって、死という縁にふれて、死後に結果となって現れるものなんだって。
うぅーーーーむ……。死んだら無になるんじゃないのか…?と、ずっと思ってはいたけど、でもそれだと納得のいかないことが僕には一つだけあった。これは仏教の話とは関係ないんだけど、なんで人間って自殺できないんだろうなっていうこと。いやまぁ実際やってる人はいるけど、少なくとも僕は自殺しようなんて気に全くならない。自殺してやる!ってやけくそになることはあってもほんとにやったことなんてない。あったらこの記事はありません。
自殺したくない、っていうことは生きたい・生きる意味があるということなんじゃないかなぁっていう予感が僕にはあった。あってほしい、と言う方が正確か。だから死後に無になるっていう考えは、なんだか今の自分の生きてる感覚が全て否定されるような感じがあった。死んだら無になるなら今すぐ自殺してもいいじゃないか、っていうこともあるしね。
そんなわけでこの因果の道理と過去世未来世の話は、まぁ総合すると7割くらいそうかもしれんって思えるかなという感じだ。100%って感じにはなれないな。因果の道理はかなり正しいと思うけどね。
ほんで?じゃあ人間は死後にどうなるか、か…。ふむ、これはなかなか興味深い。とりあえず仏教の見解の聞いてみたい。
仏「全員地獄行き」
…は?
なんで?意味がわからん。どういう理屈や。
以下解説。
仏教では人間の善悪を判断する際に、最も重要としていることがあります。それは「心が何を思っているか」です。人間のやることは大別すると「体でやったこと」「口で言ったこと」「心で思ったこと」の3つとなります。前2つの「体でやったこと」「口で言ったこと」というのは人間の目線からすると非常にわかりやすいのですが(法律や裁判の基準も体で何をやったか、口で何を言ったかの2つである)、仏教ではあまり重要視されていません。
なぜなら、その2つはどちらも「心で思ったこと」から派生するものだからです。心で全く思ってないことを体はしませんし、口もいいません。しかし体や口が動かなかったとしても、心の中では盛んに感情が揺れ動いています。酔っ払って上司の悪口を言ったりするのがわかりやすい具体例です。なので、体や口は火の粉であり、心は火の元と言っていいでしょう。
なので、未来がどうなるかは今の自分の心がどうであるかを見つめればいいということです。人に悪口を言ったり殺人を犯したりするのはもちろん将来にその報いが返ってきますが、それよりももっと恐ろしいのは「心で何を思っているか」です。
親を、兄妹を、友達を、先生を、通り過ぎる人のことを、心の中で鬱陶しいと思ったり憎いと思ったことはないでしょうか。もしあるならば、それは報いとなって自分を苦しめる結果になります。そこまで仏さまは見抜いた上で、人間はみな地獄行きであると判断しています。
地獄とは、そういう世界があるわけではありません。あくまで自分のやったことが返ってくるだけです。しかし人間は例外なく心に悪を造り続けているので、その報いは個々それぞれ違いますが、ひっくるめて地獄という名称が使われています。
……。
なるほど…因果応報の法則からいくと、自分がやったことは自分に返ってくる。例えば魚を一匹食べれば、単純に考えると自分も魚に一回食われなきゃバランスが取れない。そういうことなわけか?
しかもそういう体の行いじゃなくて、心の方が重要だって言ってる。これは正直、結構良い事も考えてるぞ~とか最初は思ってたけど、しばらく自分の心を見つめている内に全くそんなことがないことがわかった。
愚痴とか怒りとか嫉妬が湧いてきたときはもちろんわかりやすく悪だけど、相手のためを思って自分が何かするときとかも、よくよく考えると自分のためにやってんじゃね?っていうことに気づけるようになってきた。自分は相手にお礼を言われたり、感謝されたり、お返しをもらったりお金をもらったり、そういうことしか頭に無かったんだなって思う。
実際、何かやってあげても相手がそれをどうでもいい的な感じで流してきたらムカつくしね。こっちの時間返せよってなる。なるほど…自分のことしか考えてないな。今までのことも振り返ってみると、結局自分のことしか考えてこなかったかもしれない。
でもそれが悪…悪なのか?別に誰かに迷惑をかけてるわけじゃない。それに誰だって自分のことが一番だ。確かに相手のことを気遣うことが出来るのなんて余裕がある時だけかもしれないけど、でも別にいいじゃないか。結果的に相手が喜んで自分もその笑顔を見て嬉しいと思うなら、誰も損してない。自分は悪いことなんてしてない。してないはずだ…。
この因果の道理と地獄行きという話を聞いて、僕が最後まで引っかかっていたのがここだった。
因果の道理はわかる。物事には原因がある。だから今やってること、今自分が心に思うことが未来に返ってくる。これもわかる。そして自分は自分のことばっかり考えてる。これもわかる。
でも……地獄行きは言い過ぎじゃないか…?しかし釈迦はなんだったか名前はしらんけどどっかのお経に
「心常念悪 口常言悪 体常行悪 曾無一善」って書いてあって、これの意味は
「心は常に悪をおもい、口は常に悪をいい、体は常に悪をぎょうじ、いまだかつて一つの善も無い」
というものだった。
善がない…。しかも僕だけでなく、人類全体を見てそう言ってるわけだよね。まじか…。えぇ~…?うっそぉ…。
うーーーーーむ。これは、とりあえず言ってる内容は理解できるけど、よくわからん。僕は自分のことしか考えてないところまではわかるけど、それが悪だとは思えない…。地獄に行くような悪いこととは思えない…。これは保留としておこう。
そして次に仏さんは「そんな人間を必ず救う」って言ってるらしい。
……。
どこで書かれたものか知らんが、なかなか良く出来ているお伽話だと思った。でもまぁ救ってくれる分にはこっちには損はないし、どうぞ勝手に救ってくださいとしか思えない。
けれど…。僕が仏教を聞き続けようと思った最大の理由、それは「この救いが、今現在ハッキリとわかるということ」だ。親鸞が浄土真宗をうちたてて生涯をかけて伝えようとしたものは、この仏の救いただひとつだったらしい。それは「死んだらお助け」とか「いつも仏さんが見守ってくれてるよー」みたいな童話でもなく、極めて現実的に、大まじめに人間の生きる意味とは何なのかについて取り組んでいった人間の言葉だった。
僕が求めるものも、人間についての解釈とか批判とか、あるいは天地創造の宇宙論とかそんなことじゃない。「これが人間に生まれた意味だったのか!」って充実感と達成感と満足感に溢れて、そして今のこのどうしようもない人生を、確かな手応えをもって生きていきたい一心だった。
本当に……本当にそんなはっきりとわかる、手応えのある救いなんてものがあるのか??自分が救われたかどうかははっきりわかるのかどうか?という質問について、親鸞は「必ずはっきりわかる」と断言している。親鸞という人物がどんなもんかは知らないけど、とりあえずそこまで断言しているのは事実だった。
じゃあどうやったらそんなはっきりとわかるのか?仏に救われる境地なんてものにどうすればなれるんだ?
これが当然出てくる疑問だよね。次回はここについて詳しく解説して、「③本当であるとして、それは自分にもわかることなのか?本当に今この場でハッキリするのか?」についても書ければなぁと思っとります。
次回お楽しみに。
category: 求道