ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

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座禅とか瞑想とかやってる人の意味がわかった  

考える






つい最近のことなんだけど、2chのまとめブログを流し読みしてたら「瞑想」に関するスレをまとめたものがあった。「瞑想やれよ人生変わるぞ」ってやつなんだけど。
心を落ち着けるのに瞑想はいいってのはなんとなく聞いてたので、気になって見てみた。




そこでは瞑想に関する基本的な知識を紹介していて、瞑想の目的についても書かれてた。
簡単に言うと、瞑想ってのは自我(思考)まみれになってる普段の自分を切り離すことで心の静寂を取り戻すためにやる、っていうこと。
で、そこで「まず、思考を1分間止めてみてくれ」っていうのがあって、「意外とできないだろー」っていう流れから、人間が如何に普段から思考というものに囚われ、振り回されているかを説いてた。

これ、なんか僕の目指してるより自然な生き方っていうものと、本質的に同じところを見ているんじゃないかって思えたんだよね。

というのも、僕はこれまで度々「やりたいことをやる」っていうのが、よりしなやかに自然に生きるために必要なことだって言ってるけど、そうなると疑問になるのが、なんでやりたいことをやってる時は幸せなのか、っていうこと。
まぁこれも今までの記事を読んでいただくとほぼ答えは出ていて、いわゆる「フロー状態」に入るからっていうことなわけ。
つまり、何かにひたすら没頭している。雑念も余念もなく、自分の目の前の出来事に対して一心不乱な状態。
大きな特徴としては、自分とまわりとの境がなくなったような、世界に溶け込んだような感覚になることと、時間の感覚がなくなること、それが簡単だろうが難しかろうが関係なく取り組んでて、すべての動作に達成感があるってのが挙げられるかな。

んで、それってつまり「瞑想」が目指すところの「自我(思考)と切り離された状態」とほぼ同じなんじゃないかっていうことを思ったわけ。
まぁやりたいことに没頭している間は思考はもちろんあるんだけど、でもそれは極めて純粋な何かで、少なくとも自分の精神を乱すようなものではないんだよな。

言ってみれば、瞑想っていうのは呼吸法だのなんだのを使うことで、この「やりたいこと」をやってる状態に持って行こうとしているんじゃないかというわけ。
「やりたいことをやってる」の究極の状態は、言ってしまえば「生きる」という動作に他ならないわけで、食事や睡眠を始めとしてそれに付随する諸々の動作において、このフロー状態になることが理想って言えるよね。
だって、例えば自分はシューティングゲームやってる間はフロー状態でヤバイっていう人より、歩いて座って呼吸してるだけなのにフロー状態でヤバイっていう人のほうがお手軽に幸せになれるんだから。まぁ流石にそんな人はいないだろうけどさ。

まぁ僕も瞑想についてそこまで詳しいわけじゃないのであんまり知ったか発言をしちゃいけないんだけど、このまとめブログを見ててふとそんなことを思った。
つーか呼吸法だけで雑念を取り払うって…出来たらめっちゃお得だよなぁ。だって人ごみの中だろうが暑かろうが寒かろうが、深呼吸するだけでフロー状態のような感覚になれるっていうことでしょ。なにそれそんな技術欲しいわ。

僕は必死になって自分に興味あること、自分の適性を知ろうとして、それでもってやりたいことをやって幸せになろうって思ってたけど、瞑想に比べると随分遠回りなやり方ではあるな。
けど、瞑想について知ったところでいきなりその真髄を得られるわけじゃないし、やっぱり未熟な人間の立場から考えたら、僕の取ってるプロセスを踏むのがなんだかんだ取り組みやすいようにも思う。

そうかぁ、ひたすら座禅してる修行僧とかなんなのって思ってたけど、そういうことなわけね。
なんかこうこのしっくり来る感じはすごく好きだ。で、自分が向かってる方向が大枠でも合ってるようだって確認できただけでも、良かった。

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category: 人間

コメント

なるほど、てっきりゆとりさんは座禅やそういうのは既にやっているものかと思っていました。
ゆとりさんのその座禅や瞑想に対する解釈は非常に明快で正しいはずですよ。

私は2年以上毎日座禅を続けていますが、恐ろしいほどの平静が手に入りますね。
いわゆる一体感というやつでしょうね。
極限の何も考えてない集中のような状態に入ることができ、時間の概念などが消えてなくなりますね。
気がつくと3時間~4時間とかは平気でやってたりするから終わったあと驚きます。これも何かに打ち込んでいて終わったあと気づくのと同じですね。

ただ、瞑想というのは段階というものは確実にありますね。
例えば今までの過去とかがフラッシュバックして、いわゆる走馬灯みたいに見えるような時もあります。
だいたい、嫌な思い出のほうが強烈に蘇ってきますね。

それと、呼吸法は本当に大事です、私は常に軽い深呼吸みたいな感じになってますが、なんというか、ミントを常にかじっていると言いますか、ものすごくクリアになりますね。

あとそれ以上に大事なのは、例えば歩くときに「歩いている」と常に集中することですね。
極限まで「今歩いていて、右足が出て、筋肉が動いている」みたいにずーっと歩いてるというのがどういう状態なのか感覚的に捉え続けたりすると、簡単にゆとりさんの言うフロー状態へといけます。
それは食事であってもなんであっても同じことですね。

瞑想や座禅の元となった仏道は、科学がないころの実践型哲学ですからねぇ。色々研究してみると、とても「人間として自然」に振舞うのがどれほど大事かを思い知らされますね。しかも、いろんな本を読んでいると「ここで情報や知識として知ったからといって、何も分かったことになってないから自惚れないように」などと書いてあったりして、また気づかされますね。

URL | 名無しの哲人 #-
2012/10/16 20:07 | edit

Re: タイトルなし

おお!その道の方だったんですか。いつも読んでいただいてありがとうございます。

>>極限の何も考えてない集中のような状態に入ることができ、時間の概念などが消えてなくなりますね。
気がつくと3時間~4時間とかは平気でやってたりするから終わったあと驚きます。
>>それと、呼吸法は本当に大事です、私は常に軽い深呼吸みたいな感じになってますが、なんというか、ミントを常にかじっていると言いますか、ものすごくクリアになりますね。

なるほどなぁ。言ってみれば究極の趣味なんですね。趣味を通じて得られる快感のようなものを、日常の動作で感じられるわけですか。
けど、言われてみると食べるときは食べることに夢中になってるし、歩いてる時は…流石に僕程度では雑念が沸きまくりますが、歩くことに夢中になれる時もありますね。部分的には誰しもなってるんでしょうね。

仏道は実践型哲学ですか…。うーん、確かに、瞑想や座禅というのは自分という存在1つで出来るわけですから、これ以上の人生を豊かにする趣味はないですね。
しかし、生計を立てるという点からすると、自給自足以外はいわゆる俗事に何かしら関わらなければならないわけで、そうなるとなんやかんやと自分を振り回す何かが出てきますよね。
その問題に対する答えも仏道にあるんでしょうか。

座禅や瞑想を通じて心の静寂を手に入れ、社会生活のあらゆるストレスにも耐えられるようになる、というのは素晴らしいことなんでしょうけど、「耐えられる」っていうニュアンスがどうも気に入らないんですよね。
僕は何があっても喜ばしいというような心理状態、あるいは環境を目指そうとしてるのかもしれません。理想論すぎるんですけどね。

URL | ゆとりさとる #-
2012/10/16 23:59 | edit

>「耐えられる」っていうニュアンスがどうも気に入らないんですよね。

この考え方を感じる人は本当に多いですが、これは誤解ですね。
仏道は決して座禅や瞑想により「ストレスに耐えられる」ような心にするというわけではありません。
むしろ、それでは仏道としていえば大失敗です。
なぜならば以前として自らの心は「ストレス」を感じていて、それを「耐えている」からです。何の解決にもなっておりませんよね?
仏道は耐えろといっているのではありません。
心が「耐える」という認識をやめろというのですね。
耐えたところで辛いだけ、楽になりましょうということですね。

原始仏道の基本は己が幸福になるためのものであって、その結果として周りからは「ストレスに耐えている」ように見えるにすぎません。
本来はそのストレスの「元」やなぜ私たちは色んな事で「苦しむ」のかを探っていくものなのですよ。

むしろゆとりさんのいう「何があっても喜ばしい心理状態、あるいは環境を目指す」っていうのがそのまま原始仏道の基本的考え方です。
ただ、環境を変えると凄まじい労力が必要ですし、一生かけて手に入るかはわかりません、だからまずは心理状態のほうを探ってみようというわけです。
なので瞑想や座禅はゆとりさんが趣味とおっしゃったようにツールなのです。
そこを目的にしてしまうと座禅中毒みたいになってしまいます。
本来なら座禅から段階的に動くようになってくると思いますよ。
行動しながら座禅のときのような「フロー状態」を常に保ち続けるということですね。
仕事しながらフロー状態、知り合いとの会話でも会話だけに集中といったように細かい全ての動作全部をそうやって作り替えていくだけです。


ちなみに瞑想の役割をきちんと理解し、本当の意味で動ける人は、
おそらく俗事が関係なくなるんじゃないんですかね。
要するに俗事に関わっていようが関わっていなかろうがどうでもいいんだと思います。
そもそも振り回される「自分」がどこにもいないんです。
前にいったような「絶対自由の領域」というやつに達してるでしょうから、仕事が嫌だなんていって「苦しむ」ことすらなくなると思います。

ただ、ゆとりさんがそれを前に神のような領域といったように、そこまで達するのはとても難しいですね。
だから、無理なものは無理としてスパっと切り替えたほうがいいとも語られています。


ですからゆとりさんの考え方と仏道は根本的にとても似ているのですよ。
どちらも「幸福」とは何か?といったような疑問を持っていろいろなことを行うものですからね。
しかし、今の現代社会や資本主義とはちょっと真逆のベクトルに進んでいますから、風当たりは厳しいですねぇ。
でも、理想論だから諦めていいわけでもないですよね。
むしろ理想だからそこに近づけていくことが必要なのではないでしょうか?

少なくとも、私はこの今の人間の在り方にはとても疑問を覚えますし、内的に省みて、一度原点に戻ってそもそも私たちはなぜ生きているんだろうということをじっくり考えるのが必要だと思いますよ。

長くなってしまって申し訳ありません。
ゆとりさんのブログで語る内容は、日頃私が考えていることと似ているので饒舌になってしまいます。
今後も記事を楽しみにしていますね。

URL | 名無しの哲人 #-
2012/10/18 11:16 | edit

Re: タイトルなし

なるほど…。とても参考になります。

なんとなく感じてたんですけど、自然と仏道に似た考え方になってたんですね。
日本人だからなのかなぁ。

>>本来なら座禅から段階的に動くようになってくると思いますよ。

これは、確かにそうなのかなという感覚が僕にもあります。座禅の感覚を仕事に生かしたというわけじゃないんですけど、どうも人間は同じことばかりをずっとやり続ける生き物でなくて、その動きが少しずつ変化していくようですからね。飽きてくるというか、次のステージに進むというか、表現は難しいんですけど。
その時にふっと、自然と移行していった先にあるものがその人らしい生き方になるのかなぁ。

となると言ってみれば自我っていうのは自分という人間の生き様を描いた映画を見てるような存在でしかないと言えますね。つまり自分という人間は自然物の一部であって、自分の意思でもってもどうにもならないような、なんかこう…不思議な感覚になりますね。
思考と心は別物というのはなんとなく感じてるんですけど、心という自然物を自我で眺めてるような、そんな感覚。

不思議だ。

URL | ゆとりさとる #-
2012/10/19 03:32 | edit

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 |  #
2013/01/08 19:08 | edit

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