ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

人生をしなやかにする2種類の楽しさ  

風車

絵本に出てきそう?なイラレ絵。製作時間30分。





仕事をしていた時に思ったことの一つに、仕事内容より人間関係の方が大切な場合が多いっていうことがある。「何をするか」よりも「誰とするか」が大切っていう感覚。



めっちゃイヤな内容の仕事でも、仕事仲間が自分にとって価値ある人だと、その人(たち)のためにもがんばろうってなれるところがある。
お客さんの笑顔が見たくて頑張るっていうのもそういうことなのかな。
仕事はしんどいけどそのコミュニティが大切で、自分の居場所になってるからやりがいがあるっていう。

「楽しい」っていう言葉っていろんな意味があるけど、僕は大きく2つに分けれるって考えてる。
ひとつは、この「コミュニティに属する」という楽しさ。そこが自分の居場所で、一緒にいる人達とはフィーリングも合って、しょーもないことでも話してて楽しい。そういう楽しさ。
もうひとつは「自分の興味関心を追求する」楽しさ。これはハマるとヤバイ。どこまでも自分の世界に潜り込んでいくような感覚になる時があって、でもそれはすごく充実してる。孤独だろうがなんだろうがお構いなし。

僕はこれから何をやって生きていくか自分でもわからないけど、この2つの楽しさをバランスよく持つことが人生をより強く、かつしなやかに生きるコツのような気がしている。
この2つを自分の中で確立するのが、僕の中での当面の目標。あれなんか目標大きくなってね?

僕はどちらかというと後者の楽しさを追求してきたほうで、飲み会やら合コンやらよりもいろんな趣味に没頭するのを優先するのは、そういうところがすごく強く出てるんだよなぁ。
大学時代にすごくハマったゲームがあって、このゲームのシナリオが一生分あるなら、僕は一生このゲームだけやって生きていきたいのに!とか思ったりしてた。
まぁ何もなければ一生ハマれる何かを見つけて、ひたすらそれを追求していくっていうのも1つの生き方なんだろうけれど。でも病気だったり事故だったり、あるいはふと何か悩みにぶつかってしまったり、寂しくなったり、そんなときにすごく脆い。自分一人でなんとか出来ることってのは、物理的にも精神的にもやっぱり限界がある。

じゃあ大勢の人と仲良くなったり、あるいは深く語り合える間柄の友人が何人かできて、自分にとって居心地のいいコミュニティをたくさん持ってればそれでいいかというと、そうでもないような気がする。
僕は、人はどこまで行っても独りだって思っていて、どれだけ友達がいようと、助けてくれる人がいても、最終的に自分というのはどこまでも自分でしかなくて、決めるのは全部自分だ、って感じてる。
自分という存在は誰かと分担しあえるようなものじゃない。
だから、っていうのは変かもしれないけど、人間関係にばかり力を注いでる人って、なんだか薄っぺらく見える時がある。自分と向き合うことから避けてるというか。
その人は結局何がしたいのかっていうのが、話してても見えてこない。すごく良い人が多いんだけど。
それに人とのつながりって、とっても楽しいところがあるけど、ひどく脆いところもある。
そもそも何がきっかけで人間関係が変わるかなんてわからないし、別れもあるし。なんかこう、水みたいにサラサラ流れてく感じだ。

だから、自分だけの目標を持って生きていける人はやっぱり強い。孤独に強いというか。
でも、それだけで生きていこうとすると、それもそれで脆い。

その2つをバランス良く持てるかなんだろうなぁ。
何気ない、しょうもない会話でも笑って話せる人間関係があって、それでいて自分だけのやりたいこともあって。
そう考えると、家庭を持って、会社で偉くなるために頑張るっていう生き方は、すごくバランスが取れてたんだろうなぁって思えてくる。社会人の典型的なイメージだけど、典型的っていうのは理由があってこそだ。

今は状況が変わってきて、バブル以前にあったそういう構図は変わりつつあるように思うけれど、でもその本質はきっと変わらない。
お互いをさらけ出しあえる居心地のいい場所と、自分だけに意味ある、やりたいこと。それをどう実現するか。

まだどっちも持ってないよ…。道のりなげぇええー!
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category: 人間

コメント

いわば、相対的価値ではない絶対的価値を主軸とした、
揺るぎない自分の中の価値観というものがあり、
尚且つ常に変化し続ける諸行無常の中であらゆることを受け入れられる能力ということかもしれませんね。

孤独でも自らには揺るぎない、
かといって孤独を絶対とはしていない。
孤独を絶対にするとき、それはいつのまにかコミュニティーに属することを苦痛として捉え始めますよね。
コミュニティーに参加していても、気苦労はなく、かといって孤独を恐れているわけでもない。

振り返れば古今東西の哲人やブッダなどはそのバランスの追求を自ずとしていた気がします。なすがままに受け入れつつ、疑問を抱いて考え続けるというのはまさにそういうことですね。


ようは何があっても自由だから自由なのだという絶対的自由といった境地が一番いいのかもしれませんね。
家族がいても自由、いなくても自由、孤独でも自由、孤独でなくても自由、趣味があっても自由、なくても自由。
その時、人ははじめて精神的に革命できる気がします。

URL | 名無しの哲人 #-
2012/10/04 16:26 | edit

Re: タイトルなし

>>ようは何があっても自由だから自由なのだという絶対的自由といった境地

おっしゃるとおりですね。その境地にたどり着ければ、なんのしがらみもない開放感と、自分を取り巻くあらゆる環境を楽しむことができるんだと思いますよ。
けれど、残念ながらそれは神のような存在であって、人はそうじゃないと思っています。
目指すべきではあるんですけど、少なくとも今はとてもその境地には至れてないです。

身体的感覚をみてもそうですけど、肌をつねられて痛いとか、ずっと同じ姿勢でしんどいとか、そういう状況に自由は感じられなくて、どうしても苦痛であるという方向に心が引っ張られるんですよね。
それはわかりやすい例ですけど、社会に身を置くとそういう揺さぶりがダイレクトに自分の精神にふりかかってくる。

自分は未熟だからどうしてもそれに我慢ができなくて、じゃあその時にどうするか、っていうのが人としての現実的な問題なんですよね。つまりそれは頑張って克服できるものなのか、それとも逃げたほうがいいのか。

僕はそこで仮説を提示しているわけです。
人には元々自分だけが持ってる耐性(才能、人間性)のようなものがあって、その耐性が強く発揮できる環境に身を置くことで、名無しの哲人さんの言う絶対的自由の境地に近いものが得られるんじゃないか、ということです。
さっきの2択でいうと、後者ですね。自分に合わない環境だと感じたら、逃げるべきということです。
けれどどこに逃げても苦痛のない環境なんてないわけです。
ただ、自分の耐性が強く発揮できる環境なら、それは主観的に苦痛がないことと等しいです。
加えて、一緒に苦痛を耐える仲間がいるなら尚の事、ということで今回の記事を書きました。

URL | ゆとりさとる #-
2012/10/04 18:11 | edit

なるほど、確かに目指すべきところではありますが、
多くの人間が達し得ないところでもありますね。

現代は物質的に進んでしまい、便利であることを良しとしてしまいましたが、
そのせいで精神的な良さを考えずに生きてきてしまった。
その結果が今のこの社会のストレスなのかもしれませんね。
簡単にいえば、資本主義の合理化とシステム化は、人間の心には恐ろしく合わないのですよね。

>人には元々自分だけが持ってる耐性(才能、人間性)のようなものがあって、その耐性が強く発揮できる環境に身を置くことで、名無しの哲人さんの言う絶対的自由の境地に近いものが得られるんじゃないか、ということです。

なるほど、前に話していた人の天分ですよね。
精神的に充実することこそが幸福につながりますからね。
あらゆることは苦しいけども、その苦しみが「善い」と思えるところを人は探していかなければ、本当の意味で良くなることはないかもしれませんね。

URL | 名無しの哲人 #-
2012/10/08 15:52 | edit

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