ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

能力だけじゃない、自分に「できる」こと  





前回の記事で、「できることと、やりたいことと、社会から求められることの3つを満たすようなことを仕事にできればいいんじゃないか」っていうことを書いたんだけど。

そのことでいろいろ考えて、結局それは無理そうだなっていう結論に至った。
ちなみに今回もごちゃごちゃと長文を書いているけれど、この「オランダのワークシェアリング」を見れば僕の言いたいことはすべて伝わるような気がするので、あんまり書いた意味はなかったかもしれない。



そもそも「できる」ってなんだろう。

何をもって「できる」と言えるんだろう。
パッと思いつくのは「能力がある」っていう話だよね。

すると、ゲームが出来るとか、ブログ書いてますとか、昼寝が出来る、料理が出来る…って、
挙げだすとキリがないから、社会に求められてることっていう範囲で考えてみる。

となると、ネイティブレベルの英語が話せるとか、なんとかの資格を持ってるとか、
そういう大げさな話になりがちだけど、実際の仕事ではそんな特殊なものがあるかどうかより、
もっと基本的で当たり前と言われていることができるかどうかが重要なんだよね。

例えば、僕は基本的なPC操作はできます、と言える。
他にも、電話を取り次げる。メモを取れる。朝起きれる。書類を印刷できる。上司に相談できる。
お客さんと話せる。期限を確認できる。記入漏れや不備がないか点検できる。マニュアルを読める。

僕が会社で働いてた時に特に重要だったことを適当に並べたけど、「能力がある」っていう定義でいくと、
こんな感じで僕はいろんなことが「できる」と言えるかもしれない。

けどさ、じゃああなたは書類を印刷する能力があるので、今月は毎日9時間、
ずっと書類を印刷しておいてください、って言われたらどうだろう?
多分、できない。ある程度まではできたとしても、そのうち嫌になってくるだろうな。

ということは、自分は書類を印刷する能力があると思っていたけど、
それは程度の問題であって、言ってみれば僕の気分のようなもので決まってると言っていい。


思い返すと、僕が働くことに最初に疑問を持ったのはここだったんだよなぁ。
はっきり言って、僕は週に2,3日で、1日6時間労働くらいだったら、ぜひとも会社員やりたいなぁって思ってるんだけど、現実にはそれは無理ということになってる。

ここがさ、ポイントなわけ。
やらされ仕事っていう言葉があるけど、まさに僕の中のある基準を境界として、「やりたい」から「やらされてる」になってる。
で、その境界はなんだっていうのは、人それぞれだろうけど、
僕の中では「自分が集中して物事に取り組める時間」であり、
「自分の生活を維持するのに必要なお金を稼ぐ時間」なんだよね。


この境界の内側であれば、僕はいろんなことが「できる」。
けど、境界を超えてやらされ感が出てくると、「やりたくない」になって、やがて「できない」になる。
結果として、僕は銀行員は「出来なかった」。

どんなビジネスでも一発当てるだけなら比較的簡単で、それを継続することこそが難しい、って当時の上司に教わったけれど、その通りだと思う。
「できる」ってのは、能力の有無だけじゃなくて、それを継続できるかどうかも重要っていうこと。
僕はきちんと働こうという意識があったから、新入行員として色々と頑張ったおかげで上司からの評価はやたら高かったけど、結果的には一年で辞めてしまったわけで、継続という観点からすると僕は会社員は「できない」ということになるんだよね。

思えば、受験勉強にしろ、部活にしろ、趣味でやってることにしろ、好きな時に好きなだけやればいいっていう条件下だったからこそ、「継続」できたんだなぁ。

自分のやりたいペースで、自分のやりたいときに、必要なだけ働く。
これが理想なんだよな。理想というか、そうしかやりようがない。
けど、社会は週5日の労働を求めているから、いくら能力があったとしても、
長い目で見ると継続できなくて、結局はバイトとか、自営業をするしかないのかもしれない。

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category: 人間

コメント

はじめまして。ブログランキングからやってきました。

できる境界、できない境界、やらされてる感、継続できる環境…。

なるほど、と思いました。ブログ更新、楽しみにしています。

URL | kei #-
2012/08/25 13:13 | edit

はじめまして、ふと貴方のブログがふと目に止まり、最初から全部を読ませていただいた通りすがりです。

ゆとりさんの文章は読んでいると思わず自然な笑みが溢れてくるほどに、素直で垂直な力強さを感じる次第です。


何をもってして出来るのか、そしてどこから出来ないことになるのか、やっているのか、やらされているのか‥‥‥

それと一つ、私は少し確信してしまいました。
ゆとりさんは「生きたい」のですね。もっと言うのならば「生きていることとはなんだ?」という問い掛けをしている。
多くの方は、おそらく生活をすることが生きることになっているのでしょう。
ですが、生活をするために生きるというのなら、それは食べるためだけに生きてればいいことになる。
しかし、不思議なことに、人間はそれはできない。それができるのは人間以外の動物であります。
人間はただ生存するために食べることを良しとはできない生き物なのですよね。

キリストも「人はパンのみによって生くるにあらず」とおっしゃり、
ソクラテスは「食べるために生きるのか、生きるために食べるのか?私は後者である」と、このようなことを残しています。

ですから実は「生活をする」ことと、「生きる」ことはイコールでは結びつかないというとっても面白いことになってしまう。
幸か不幸か、その仕組みに気づいてしまうと、今までのいわゆる常識が崩壊していきます。
流行や社会、お国柄、そういったものによって固定観念として受け付けられていた何かが、崩れ去っていったんですね?


そして、これも確信なのですが、
ゆとりさんのおっしゃっている才能とは、よくいう人の語る才能はないのですね?
つまり、「在るとか無い」で語られるところの才能ではなく。
「在る」として確実に存在しているもの、つまり「その人がその人である」という絶対に覆せない性質のことを言っているのでないでしょうか?
言い換えるならば、天分、天命といったような‥‥‥その人が、その人でしかないという誰しも持っている絶対的な天分といいますか。
少しオカルトのようになってしまうかもしれませんが、「気がつくと、こうとしかできていない」といったような何かではないでしょうか?
やりたいにあらず、やりたくにないあらず、できるにあらず、できないにあらず。
わからないけど、こうとしか生きれてない‥‥‥といったものではないでしょうか。
私はちなみに、こういう「思考」がその天分に当てはまります。
私は常に「生きているとはなんなのか?」が頭の中にありまして、こればかりは何をしようが誰に言われようが、
やめようとしようが、気がつくとまた、思考を巡らし、「存在」とは何かについて考えています。
実際このおかげで、普通の人との会話は辿たどしくなり、働く際にはヘマばかりやっております。
流行や常識などが、全く頭に入ってこないため、ズレていると言われることはしょっちゅうです。
これを呪ったこともありましたし、どんだけ努力しても治せなく苦悩していた時期もありました。
ですが、こういった、もはや治そうという努力の範疇を超えてしまっている性質こそ、その人のもつ才能なのかもしれません。


だらだらと長くなってしまい、また非常に観念的で申し訳ないです。
引き続き、ブログはとても楽しみに見させていただきます。

URL | 名無しの哲人 #-
2012/08/26 00:16 | edit

Re: タイトルなし

>>keiさん

はじめまして。私もブログ見させてもらいました。
10年ほど勤められた会社を辞めたんですね。
僕とはまた違った視点、立場だと思うので、ブログの更新楽しみにしてます。

URL | ゆとりさとる #-
2012/08/27 02:41 | edit

Re: タイトルなし

>>名無しの哲人さん

はじめまして、コメントありがとうございます。
なんだかズバリ本質を突かれたような気分です。

そうですね、生活するのではなく、「生きる」ということが何なのか、迷っているんです。
そして「生きる」とは何よりもその人自身が切実に感じられる何かだと思ったので、
「生きる」ヒントとして、「その人らしさ」のようなものが手がかりになるんじゃないか。
そんな風に思ってるんです。

それは能力やセンスといったものを超えた何かで、自身に深い喜びを与えてくれる何かだ…と思ってるんですか、僕も名無しの哲人さんと同じように観念的にしか語れません。

そこに具体性を見出したいんです。そして自分が幸せになると同時に、出来ればその具体性を再現できるような考え方を打ち出して、世の中の人みんなに知ってもらいたい。
このブログはそんな思いで書き綴ってます。

これからも楽しみにしてくださいね。

URL | ゆとりさとる #-
2012/08/27 02:53 | edit

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