ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

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ストレスと教育って意外と結びついてる  

ぬこ寝




暑い季節。

当然、布団なんかかけないで寝ても、寒くはならないし、むしろまだまだ暑い。
けど、最近よくお腹が冷えるというか、下痢気味になることがあって、意味わかんなかった。

今までも同じようにして寝てたんだけど、今年だけなんでこんなに…と不思議に思って調べてみたら、
お腹の冷えはストレスからくるものもあるとか。

どんだけ人間にダメージ与える範囲広いねん…。
精神系だけでなく物理系もあるとか、ストレスは人生の大敵と言っていい。



今日はこれから寝ようと思っていたところで半端に起こされて用事を頼まれたので、
相当だるい思いをしながらこなして、帰宅してからまた寝た。

確かにストレスはあったよ。でもさ、これくらいで体に不調あったらまともに生きてられないよ。
けど、それぐらい僕自身が弱ってるってことかもしれない。なんか最近さらにダルくなってきたし。

思い返してみると、幼少期から今に至るまで、色々とストレス溜まることたくさんあったなぁ。
小学校だと、夏のくそ暑い炎天下の中、体育会の練習でやたら整列ばっかりやり直したり、
校長のいつまでも終わらない話をじーっと聞いたり。

今だったら絶対無理だわ。

あと、中学受験のためにほぼ毎日塾に通わされたり。
本心ではいやだったけど、小学生程度でそこまで深く考えられないから、親の言いなりになってたなぁ。

中学や高校でも、細かいことを挙げるとキリがないくらい、そういうことってある。
別に僕だけじゃなくて、みんなそうなんだけどさ。

今思えば、それはすべて社会に適応するための訓練だったんだろうけど、
それって確実に人にストレスを蓄積していってる。
本人たちが無邪気なのをいいことに、あれこれと子どもに押し付けるような教育って、どうなんだろう。

僕がはっきりと自分の意志で何かを選んで行動したのって、大学への推薦を蹴って受験したときで、
(それでもかなり狭い選択肢の中での決断だったけれど)
そう考えると大人としての自我のようなものを持ったのは、まだここ8年くらいの話かもしれない。

そして会社に入って悩んで、いろいろと考えた結果、このブログの記事で散々言ってるように、
人間は自分がやりたいこと・心から素直に行動したいと思えることだけをやっていけばいい、
っていう当面の結論になった。

そういう観点から見ると、いわゆる義務教育とか、社会で立派に生きていくためのあれやこれやってのは、本当に必要なものなのかどうか、怪しいものがある。

もし僕が子育てをするなら、子どもが素直にやりたいと言ったことだけをやらせてあげると思う。
学校に行かせることすら躊躇うかもしれない。
学校っていうものの存在を教えて、行きたいと言えば行かせてあげればいい。
他にも、少しずついろんなことをやらせてあげて、視野を広げるお手伝いはやってあげたいと思うけど、
もうしたくない、行きたくないと言ったら、その通りにすればいいように思う。

そんな育て方じゃ将来ろくな大人にならないとか、社会で生きていけないとか言うかもしれないけど、
そんなことはないんじゃないかな。

というか、大人は子どもを舐めすぎというか、勘違いしてるところがあるんじゃないかなぁ。
子どもって実は大人が思ってる以上にいろんなことを感じてるし、生きていくための自衛の手段だって、
大人がわざわざ持たせてあげなくても、勝手に学習していくものだ。

教育するとか育てるっていうより、一人の人間として接する、くらいで丁度いいんじゃないかな。
どんな正論だろうと、世の中を有利に渡っていくためと言っても、
子どもが望まない形での教育は、将来何かしらの形で、与えられたストレスを跳ね返すように、
本人の行動に影響を与えると思う。

犯罪や、不道徳な行動、倫理の欠如って思われるようなことをするのは、
その人自身に問題があるというより、そうしないとやってられないくらいの環境に置かれ続けたから、
のほうがしっくりくる。

そもそも、大人が子どもを叱りつけたり、強制させたりするようなことってのは、
自分たちも我慢して乗り越えてきたんだから、当然子ども達もこなすべき、みたいなことか、
もしくは、自分だったらこうなりたいみたいな、ただ自分の理想を押し付けてるだけに過ぎない。

自分たちの押し付けじゃなくて、子ども達自身が望んでいる環境を用意するための努力をしよう、
なんていう殊勝な考えの大人は、少ないような気がする。

なんでこんなことを力説するかというと、自分で感じて考えて、選んだ道を進まない限り、本当の意味で自分の血肉になることはないからだ。

社会的ステータス向上のためのお受験だとか、多数派のための社会のルール・模範的な倫理観の教育、これらは元々は素晴らしいものであることには違いなくて、無いよりあった方がいいだろってのは、当然なんだよね。
僕もそれ自体が悪いものとは全く思っていない。それを自分が本当に欲してるかどうかが問題なんだよ。

仮に、子どもも素直にそれに従って努力して、反抗期もなく、社会にすんなり馴染んでいったとしよう。
親はその姿を見て、自分たちは本当にいい子育てができたなと、
そして子どももそれによく応えてくれたなと、思うんだろうね。

しかし残念なことに、この子どもは順風満帆な人生を送れない。
というか、自分はこんなにも幸せだって胸を張って生きることができない。
なぜなら、自分で選んだ道を自分で切り開いて、その結果がどうなろうと自分の人生だって腹くくれるくらいの、決断力が全くないから。

正解のない2択を迫られた時に、両方のメリット・デメリットを分析・比較する能力はあっても、
自分という人間の性質を見極めた上で、リスクを覚悟で一方を選ぶっていうことが、できなくなるだろうね。
あるいは、いつも多数派に身を置くことでしか安心を感じられないような、極めて臆病な性格になるかも。

それが悪いっていうことではないんだけど、いつかそれが凄まじい障害になって、壁になって立ちはだかるときがくるように思う。


僕も、遅ればせながら、23歳になってようやく、自分を見つめなおさなきゃいけないことに気がついた。

いい子でありすぎた。社会に馴染みすぎた。他人が掲げる倫理観や道徳観に従いすぎた。
自分の中では相当、反抗心をもって生きてきたつもりだったけど、まだまだ甘かった。
自分の心が疲弊しきって会社を辞めてしまうぐらいにならないと、気づかないものなんだなぁ。

自分を見つめなおすには、すべてを疑ってかかる、行動が必要だ。

僕はホームレス生活をやった方がいいかもしれない、と本気で思っている。
家があった方がいいのは当たり前なんだけど、それはお利口さんな頭で理解しているだけで、
僕自身が心から家のありがたみを演説できるくらいにならないと、ただの頭でっかちで終わる。

お金も、仕事も、教養も、全部0からのスタート。

まずは、あらゆるものが無い状態から。家が無いとどうなるんだろう。
意外となんとかなるかもしれないけど、心底いやなこともあるかもしれない。

そうなった時に、初めて僕の中で本当の意味での価値観が生まれる。
言葉にすればごくありきたりなことかもしれない。「家って大切ですよね」、と。
世間じゃ当たり前なこととしてみんな何気なく思ってることかもしれないけど、
でも僕の中では本当に自分の体の一部のように、そのことを実感できる。

そのとき、生きてるって感じがする。

僕は、脳みそは普通より性能がいいのかもしれないけど、人間としては馬鹿の部類に入るだろうね。
けど、そうやって自ら頭を壁にぶつけていくような生き方でないと、
自分が本当に何を必要としているのか、わからないんだよ。

何もかも手に入れて、生きることに飽きるような人生は送りたくない。
自分の今の環境を、心からうれしいと思えるようになりたい。

そのためには、親や世間が用意してくれたものを、ごめんなさいと言いつつ、一端捨てないといけないんじゃないかな。

僕は仙人にでもなろうとしているのだろうか。
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