ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

生きることについて、雑感。  


社会で良い生き方とされるのは欲望を叶えるということだと思う。一番を目指すとか、年収を増やすとか、人脈を増やすとか。人間ステータスの強化みたいな。これがなぜ良いとされるかというと、周りの人にも恩恵があるからだと思う。わかりやすいメリットを増やしていくことで、みんなで麻薬的な気持ちよさに溺れることができる。その時、本人も周囲の人たちも生きててよかったと思うようにできてる気がする。

けれどそれは誰でも出来ることじゃないし、一時期出来ていた人でも出来なくなっていくことがある。そこで新しい価値観として「ただ生きるだけでいいじゃないか、頑張らなくてもいいじゃないか」的なゆるーい思想が現れはじめた。この思想でよく引用されるのはなぜか仏教だと思う。たしかに人生はわからないもので、わかりやすいステータスを伸ばすことをやめて一見ダメそうな生き方をしている人でも周りから見ると意外に幸せそうに見えたりするので、これも一つの生き方として注目されるようになってきた。

この2つの生き方は相反するもののようでいて、実は根本的には同じものだと僕は思う。要するにどちらも一時的で麻薬的な気持ちよさに浸ることを目的としている。前者は社会という他者との関係の中で、後者は自意識という閉ざされた世界の中で、自分はこれでいいんだとか生きてていいんだとか生きててよかったとかいう感想を持ちたくてやってる。多くの人は、この2つのやり方を都合の良い感じに切り替えながらだましだまし生きてるんじゃないだろうか。というか僕がそうなんだけど。

でもこの2つの生き方には致命的な欠陥がある。前者はわかりやすく能力やチャンスが足りなくて上手くいかないとか、弱肉強食によって誰かから奪ったり傷つけたりする必要があるとか、逆に自分がその被害者になったりとかそういう感じ。他者とのやり取りで発生するあらゆる不都合によって幸せを感じられないときがある。後者は他者に邪魔されることも奪われたり傷つけられたりすることもない代わりに、自分に振り回される。ただ生きるだけで十分なんだなぁとか思った5分後には飽きてもう何か別のものを追いかけ始めてたりする。ただ生存するだけでいいというなら植物人間みたいになればいいわけだけど、それができなくてやっぱり何か外部のものを求めてしまう。

どちらの生き方にしても失敗した時は上手く行かなかったなー残念だった~で終わらせられればいいんだけど、そうは問屋がおろしてくれない。人は失敗にとてつもなく苦痛を感じるようになってるんだよね。この苦痛がスパイスになって幸せというご褒美が与えられているようにすら感じる。人間の幸せって苦痛ありきだよねっていう。明るく社交的に生きるにしても仙人みたいに自分の中に閉じこもって生きるにしても同じことじゃないかな。嬉しいことと嫌なことをまぜまぜしながら生きていく。

これをどう感じるか。多分、嬉しいことと嫌なことのトータル収支はプラマイゼロなんじゃないかって僕は思う。もし仮にそうだとすると、人生に価値はあるんだろうか。この問いに対してその答えはわからないとか人それぞれとかいうのが哲学。答えはあるとするのが宗教。

続きはまた気が向いたら。
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