ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

久しぶりに思考を書き綴る  

FXを勉強し始めてさっそくめんどくさい気持ちが強くなってきてる。勝つためにはこういうことをすればいいとか色々と考えは出てくるんだけど、実行するまでいかない日々が続いてる。思えば会社を辞めたときも含めて、僕の20代というのはあらゆることが何一つ長続きすることなく終わってしまっていて。唯一変わらずに触れているものと言えばネットくらいかな。
このまま新しい可能性を模索していっても同じことの繰り返しのような気がするので、20代の締めくくりとして(30歳まで2年あるけど)自分なりにその原因について考えてみることにした。

実はこの「何をやっても長続きしない、やる気が出ない」問題については自分にとっての原因がはっきりしてる。ブログで昔に書いたかもしくは寄付企画で書いたレポートに載せた気がするんだけど、僕は大学時代に一つ大きな失敗を経験してる。簡単に言うと、当時所属していた部活での次期主将を決める選挙で負けてしまった。もう少し詳しく書くと、やる気的にも実力的にも先輩やOBはほぼ全員僕が主将になると思っていて、もちろん僕も自分が主将になると思っていたしやる気まんまんだったんだけど、フタを開けてみると僕が一票差で負けという結果だった。このときの衝撃は凄まじいものがあって、めちゃくちゃ取り乱してたことを今でも覚えてる。何がそんなに衝撃的なのかという背景を書き出すと長いので省略するけど、要するに僕にとって天地がひっくり返るくらいの衝撃で、僕の人生における敗北ともいえる出来事だった。

つまり、そこで一つの失敗経験というものをしたわけ。人間って失敗を知らないから突っ走れるみたいなところがあって、一度手痛い大きな失敗を経験してしまうと恐ろしくて二度と同じことに挑戦することができない。で、僕にとってのその時の失敗の本質というか痛みは何だったかというと、選挙で負けたとか主将になれなかったとかそういうことでなく「一つの物事(人間関係)に深入りして裏切られること」に対する恐怖だったんだと思う。

人が何か事を成すのって、実はものすごいエネルギーが必要なんだよね。それは簡単に愛と言ってもいいんじゃないだろうか。とにかくそのことが気になって、自分の心血を注ぎたいっていう気持ち。その形は優しさだったり暴力だったり、表現方法は色々ある。本来の言葉の意味とは違うかもだけど、愛情というのは別に恋人や親子の間だけでなく人間の関心そのものだと言っていいと思う。逆に愛情の反対は無関心・無関係ということかな。

で、人間に無償の愛というのは存在しない。何かにエネルギーを注ぐのは、何かしらその人にとっての見返りがあるからだ。そういう意味で僕は部活を愛していたわけだけど、その見返りが得られなかった(僕の主将としての人格を認めてもらえなかった)ので、それが裏切られたと感じて失敗したと感じてしまったわけ。これは当時の僕は大学が嫌でしょうがなく、自分の存在意義が部活にしか見いだせていなかったので仕方ないと思う。生きている世界が非常に狭かった。

それからというものの僕は何か一つの物事や他者に対して深く関わる(愛する)ことが出来なくなってるなと思う。自分の中でここまでならOKというラインがどうやらあって、それを越えて関わられることに対するリスクに過敏に反応してしまう。仕事でも人間関係でも、そこを超えると僕の人生にとって無くてはならない存在となってしまうという一線を前にして、急ブレーキがかかってしまうわけだ。これは意識とか考え方でどうにかなるものではなく、まぁトラウマっていうことなんだろう。今思えば僕が会社を辞めた理由は、労働環境がどうとか仕事内容がどうとかじゃなくて、もっとシンプルに深く関わりたくなかったからなのかなって思う。もし深く関わる気があったなら、悪い労働環境であれば自分が出世して変えていこうとか、むしろそういう前向きな理由になっていく。出来る人は常に前向きとか自分から動くとか言うけれど、要するに愛があるんだよね。その物事に対してエネルギーを注ごうという姿勢があるかないか。それが出来る人と出来ない人の境界なんだと思う。

なので同じ「会社を辞めた」と言っても、僕のように人間や物事全てに対して深く関わろうとしないパターンの人間と、単に労働環境や仕事内容が合わなかった人とではその後の行動に大きな違いが出る。それは何かというと、後者のような人はいずれ自分に合う環境と出会って再就職していくということだ。僕の場合はそもそも現在の働くということが多大にエネルギーを投入する行為であり愛情を注ぐことを求められているように感じられるので就職することは出来ないというわけ。ちょっと気が向いたときに片手間でやってあっさりとした関係で終われることであれば、続けられるんだと思う。でもそれって愛情を注がずに結果だけ欲しいっていうことなので、矛盾しているんだけれども。

愛情を注ぐ(エネルギーを注ぐ)っていうのは、いわば人生における投資そのものだと思う。自分の人生の時間・労力といったものを注いで、そこから何かわからないけどリターンを得ようとしている。投資というからにはリスクがあるし、上手くいかないことがある。なんでかわからないけど僕にとっては部活の失敗というのがえらく人生において本質的で危機的な失敗だったらしく、10年近く経った今でも影響を残しているんだと思う。その失敗から僕が学んだというか感じたのが、「自分の人生に無くてはならないと思うほどのものをもつことは危ない」ということだ。アイデンティティの崩壊の辛さというのはちょっと他に例えられる気がしないくらい僕にとっては強烈なことということなんだろう。お金が無いとか孤独だとか、そういう辛さよりも「この人が居ないと、この仕事が無いと生きていけない」という状況の方が僕にとってリスキーということ。

でもそれって実は幸せと言われることの裏返しでもあるんだよね。自分の人生に無くてはならないと思えるものと出会えるなんて、とても幸せなことだ!っていう見方もあるわけなんです。まさにそのとおりで、僕の10代は幸せだったなと思う。自分に関わるいろんなものに上手く愛情を注げていたし、見返りも得ていた。けどそれにはリスクがあるとわかったのがその部活の一件だったということ。

で、どの考え方が正しいとかはどうでもよくて、つまり問題は今の僕は物事や人間関係に深く愛情を注ぐことが出来ないということだ。その上で生きていくにはどうしたらいいかをずっと模索しているんだけど、答えが見つかってないっていうのがこの10年の結論。まずお金を稼ぐという行為が、多大にエネルギーを要する。ちょっとおもしろそうなアプリゲーでもダウンロードして遊んでるだけで稼げるみたいな感じだったら良かったけど、そういうふうには出来てない。最近ではFXという手段に行きついたけど、これもちょっとやったぐらいで稼げるような簡単な感じではないし、勝ち組になるための道のりを考えると結構な愛情を求められる気がしていて、めんどくさいと思ってるんだよね。これで話が最初に戻った…。

働くのめんどくさいという一言で済む話をここまで膨らませられる自分の言い訳能力を何か活かせないだろうかと考えたりもするけど、上手くいかないね!あ~宝くじ当たりてぇ~働くの無理~少しの衣食住とネットだけあれば生きていけるけど、まだ多くを望みすぎかな~~
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