ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

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たまにはお経の原典から  

今回はお経にあるお釈迦さんのセリフを引用しながら書いてみる。お経って言うとわけのわからない漢字がだらだら並んでるイメージで実際それは合ってるんだけど、その中身や意味を知る人はほとんどいない。お経はお釈迦さんの生涯をかけた人間に対するメッセージでかつ真理なので、いつの時代でも人の心を貫く内容になってる。もちろん僕が出会った阿弥陀仏の救いもお釈迦さんの説法が無かったらありえなかった。

文中に出てくる無量寿仏っていうのは阿弥陀仏のことね。引用は赤字で、本願寺出版社が出してる浄土真宗聖典の大無量寿経下巻から。

まずは仏とはどんなものかってところから。

「無量寿仏の国に生れた菩薩たちは、教えを説く相手に対して常に正しい法を説き述べ、仏の智慧にかなって決して誤ることがない。その国土のすべてについて自分のものだという思いはなく、それに執着する心もない。どの国へ行くのも帰るのも、進むのもとどまるのも、自分の思いにとらわれることがなく自由自在であって、何ものも疎んじることがない。自分と他人とにへだてがなく、人と競い争うこともない。あらゆるものに大いなる慈悲をもって利益を与えようとするのである。いつも柔和であり、怒りや恨みの思いを持たず、煩悩を離れた清らかな心を持ち、なまけおこたることがない。つまり、すべてのものを平等に救おうという思い、すぐれた志、深い慈悲、乱れることのない静かな心、あるいは教えを愛し楽しみ喜ぶ心ばかりで、すべての煩悩を滅し迷いの心を離れているのである。」

悟りを開いて輪廻を外れた仏について簡潔に表現した部分。無限の命と無限の智慧を備えていると言われる。

「無量寿仏の国の声聞や菩薩たちの功徳や智慧がすぐれていることは、言葉に表し尽せない。またその国土が美しくて心安らぎ清らかであることも、すでに述べた通りである。

それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのだろうか。それぞれに努め励んで、すすんでこの国に生れようと願うがよい。そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏の国に往生し、ただちに輪廻を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができる。無量寿仏の国は往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう。


ここからお釈迦さんから見た世間の人々の様子について。

 ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。

 田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂え悩む。それらのものについてとにかく心配し、何度もため息をついて嘆き恐れるのである。思いがけない水害や火災や盗難などにあい、あるいは恨みを持つものや借りのある相手などに奪い取られ、たちまちそれらがなくなってしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ちつくときがない。怒りを胸にいだいていつまでも悩み続け、心を固く閉して気の晴れることがない。また災難にあって自分の命を失うようなことがあれば、すべてのものを残してただひとりこの世を去るのであって、何も持っていくことはできない。身分の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂いがある。その悩みや心配は実にさまざまである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。
 
 また、貧しいものや身分の低いものは、いつも物がなくて苦しんでいる。田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品品に至るまで、なければないでまたそれらが欲しいと悩むのである。たまたま一つが得られると他の一つが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりはすべてを取りそろえたいと思う。そうしてやっとこれらのものがみなそろったと思っても、すぐにまた消え失せてしまう。そこで嘆き悲しんでふたたびそれを求めるが、もうそのときには得ることができず、ただ思い悩むばかりで身も心も疲れはて、何をしていても安まることがない。いつも憂いに沈んで、このように苦しむのである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。またときには、そういう苦悩のために、命を縮めて死んでしまうことさえある。善い行いをせず、修行して功徳を得ようともしないで、寿命が尽きて死んだなら、ただひとり遠く去っていく。行いに応じて行く先は決っているが、その善悪因果の道理をよく知るものはひとりもいないのである。」

「人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代わってくれるものはない。善い行いをしたものは楽しい世界に生れ、悪い行いをしたものは苦しい世界に生れるというように、おのおのその行く先が異なっておリ、厳然とした因果の道理によって、あらかじめ定められているところにただひとり生れて行くのである。そして遠く別の世界に行ってしまえば、もうめぐりあうことはできない。それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのである。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはない。ふたたび会うことなど、まことに難しい限りである。

それなのにどうして人々は世間の雑事をふり捨てないのか。各自が元気なうちにつとめて善い行いをし、ただひたすら迷いの世界を捨てて無量寿仏の国に生れたいと願うなら、限りない命が得られるのである。どうしてさとりを求めないのだろうか。何を期待しているのだろうか。いったいどういう楽しみを望んでいるのだろうか。」

 「このような世間の人々は、善い行いをして善い結果を得ることや、仏道を修めてさとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生れ変わることや、人に恵み施せば福が得られることを信じない。善悪因果の道理をまったく信じないで、そのようなことはないと思い、あくまで認めようとしない。このように因果の道理を信じないから、自分の誤った見方にとらわれ、またそれをかわるがわる見習って、先のものも後のものも同じように誤る。そして、子は親の教えた誤った考えを次々に受け継いでいくのである。もともと親もまたその親も、善い行いをせず、さとりの徳を知らず、身も心も愚かであり、かたくなであって、自分でこの生死・善悪の道理を知ることができず、またそれを語り聞かせるものもない。善いことが起きるのも悪いことが起きるのも、すべて次々に自分が招いているのに、だれひとりそれはなぜかと考えるものもない。」

 
さとりを求める重要性について述べられている。これは僕の感覚だけど人生は苦楽の波、あるいは快・不快の波を泳いでいくようなものであって、僕らは苦よりも楽そして不快よりも快を求めてるんだけど、結局のところ波におぼれて翻弄されているに過ぎない。

仕事でも学校でも趣味でも恋愛でも、上手く行くときもあれば上手くいかないときもある。上手くいけば嬉しいけど、それも日をまたげば夢のように過ぎ去って、穴が開いた容器から水が流れでていってしまうように後には何も残らない。そんな容器にまた水をそそいでは失敗したり成功したりを繰り返して、でも最終的にはやっぱり何も残らない。

その繰り返しがいわゆる輪廻転生ってやつで、地獄から天上まで6つの世界があるらしいけど、幸不幸の程度の違いはあっても本質的にどれも迷っていることに変わりなく、だからこそ悟りを求めて輪廻から解脱する必要があるっていうこと。

「わたしは今、そなたたちに世間のありさまを語った。人々はこういうわけでさとりの道に入ることがないのである。そなたたちはじっくりとよく考えていろいろな悪を遠ざけ、善い行いに励むがよい。欲望にまかせた生活も、またどのような栄華も、いつまでも続くものではなく、すべて失われてしまう。本当に楽しむべきものは何一つない。さいわいにも今は仏が世にいるのであるから、努め励んでさとりを求めるがよい。まごころをこめて無量寿仏の国に生れたいと願うものは、明らかな智慧とすぐれた功徳を得ることができるのである。欲にまかせて仏の戒めに背き、人に後れを取るようなことがあってはならない。もし疑問があって、わたしの教えることがよく分からないようなら、どのようなことでも尋ねるがよい。わたしはそのもののために説いて答えよう 」

自分の力でさとりを開くことができないので、「まごころをこめて無量寿仏の国に生れたいと願う」ことが大切。阿弥陀仏はその願いに応えてくれるわけだけど、それはこういう話を知ってるからどうとか、心の中でお願いしたからどうとか、盲目的に信仰してるフリをしてるからどうっていう話じゃない。信心ははっきりとした証拠を伴って僕らの前に現れるんだけど、それについて書くと長いので今回は省略。

「たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない。そもそも人として生れることは難しく、仏のお出ましになる世に生まれることもまた難しい。その中で信心の智慧を得ることはさらに難しい。もし教えを聞くことができたなら、努め励んでさとりを求めるがよい。教えを聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じ喜ぶものこそわたしのまことの善き友である。だからさとりを求める心を起すがよい。たとえ世界中が火の海になったとしても、ひるまず進み、教えを聞くがよい。そうすれば必ず仏のさとりを完成して、ひろく迷いの人々を救うであろう 」

この極楽浄土への切符とも言える「信心」を得るのは、この世の中で最も難しいと言われている。親鸞の言葉を借りて言うと「難の中の難これに過ぎたるは無し」(正信偈)。…まぁ人間とか動物とか神様とかいうレベルを超えて仏だからなぁ…理屈では間違いなく人生の目的って言えることだと思う。

「無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生することができ、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる」

最後に救われるということについて少しだけ。↑の文を見て分かるように、救われるために必要なのはたった1回の南無阿弥陀仏という念仏なんだけども、ただしこれを「心から」唱えなくてはならなくて、「五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれ」てしまう。

やってみるとわかるけど、心から「救って下さい」とか念仏することなんて出来ない。やろうとしてもそれは自分の中にあるよくわからない勝手な仏のイメージに対して願ってるだけだし、「これで本当に大丈夫なのか…??別に何も変わらんぞ?」っていう疑念の心が消えることはない。

けどこの疑念の心っていうのが「五逆の罪・仏の教えを謗ること」に当てはまることで、つまり疑いを持っている人は救われませんよっていうこと。結論を言うとこれは「全ての人間は救われませんよ、だって阿弥陀仏のことを心から信じてないでしょ」って言ってることになる。

必ず救うと言っているのに必ず助からないとも言っている。なんだこれは…となるんだけど、今回はこれで終わりにする。気になる方は以前書いた記事を読んでくださいまし!
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