ゆとりさとるの日々

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信じるということについて  

最近は平日は夕方からバイトに行き、週末は仏教を聞きに行くというサイクルになってる。でもバイトは週に3日くらいだし、昼間は毎日暇だから結局暇だ。なんかぼちぼち働けるところで定職につけたらええなぁと思っとります。

ブログに関しては僕の体験記はさておきで、仏教の考え方や世界観みたいなものについて自分の勉強がてら書いていこうかなと思う。最初は信じるということについて。初回からかなり重要なところです。
普段僕らが使ってる信じるということと、仏教での信じるということについては大きな隔たりがあるなって思う。僕らが普段使う信じるっていうのは、これは「期待している」って言い換えてもいいんじゃないかな。なぜなら生きていく上で絶対的と言えるものってないので、信じるとは言っても「でももしかしたらダメかもしれない、間違ってるかもしれない」っていう可能性が常にあるわけよね。

例えば「地球は丸い」ということをみんな信じてるけど、別に自分で宇宙空間に行って確かめたわけじゃない。自称「おれは確かめた」って言ってる人の話を「まぁおそらくウソじゃないだろう」って判断して、あるいは期待して、自分の知識にしてるだけだよね。

だからもしかしたら間違ってるかもしれない。自分の目で確かめてみるまではあくまで、「きっとそうだろうと期待している」程度に過ぎない。
親とか恋人を信じてるっていう人だって、いつ裏切られるかもわからない。人間の気持ちほど不確かなものはないわけで、何十年と一緒に連れ添った人同士でも離婚したりケンカしたり疎遠になったりはよくある話だよね。
自分の能力を信じてる人も、いつ社会から不必要とされるかわからない。自分よりできる人なんてたくさんいるし、これまで賞賛を浴びてた人が一気に、流行の変化によってバッシングを受けたりもする。

というわけで、僕らが普段使ってる信じるっていうのは「期待している」とか「(100%じゃないけど)信じてる」っていう表現が正確だよね。

対して、仏教でいうところの信じるっていうのは100%絶対の信じるっていうこと。だからあいまいな「期待している」とか「もしかしたら違うかもしれないけど信じてる」っていうのは信じるとは言わない。信心(信じる心)ではないわけね。でもそんなことが果たして人間にできるのか出来ないのか、関心がある人も多いんじゃないだろうか。

さて、その仏教の「信じる」の中でも2種類あって、ひとつを「自力の信心」、もう1つを「他力の信心」という。

自力っていったら「自分の力で」というのが一般的な意味だけど、これはもともと仏教用語で本来の意味は「仏法を信じず自分の力を信じている状態」ということなんだよね。

他力というのも他力本願っていうのがよく言われるけど、これももともとは仏教用語で、「阿弥陀仏の力によって仏法を信じる心をたまわること」を言う。

他力の信心については非常に間違えやすいのでもう一度丁寧に説明すると、仏法を信じる心を「仏さんから受け取る」のであって、「自分が、自分の判断で、自分の力で、自分の価値観で、仏法を信じる、あるいは信じられるようになる」のではないということね。

「自分は仏法を信じられるはずである」というのは「仏法でなく自分の力を信じている状態」なので、これは自力の信心という。

そしてこの自力の信心と他力の信心は、はっきりとした境界線があってあやふやだったりわかりにくかったりするものじゃない。求めていくと転換点がはっきり自覚できるものということね。

まとめると

仏教でいう「信じる」は「100%絶対」という意味での信じるである。そして仏法を聞いていくと必ず自力の心が出てくる。「この話は本当だろうか?」「どうしたら救われるだろうか?」「ほんとに阿弥陀仏なんているのか?」とかが具体的な例。こういうのを「疑心」と言って、「自力の計らい」ともいう。阿弥陀仏によって自分が間違いなく救われるということに「疑いがある状態」。

それが、ある時ふと転換する時がやってくる。求めて求めて、でもついに得ることが出来ないことが腹底から理解できたとき、「自分には仏法を聞く力などなかった。自分こそ正しい、自分には仏教を理解できる、自分は必ず救われる、自分なら必ず信心が貰えると信じていたが、それは間違いだった」と気付かされ、その一瞬に「仏智の不可思議によって仏法を信じる心を貰える」ということ。

わけがわからないと思うけどそうだとしか言いようがない。親鸞もなんとかこのことを伝えようといろんな著作を残されてるけど結局ほとんどの人にはきちんと伝わってないしな。言葉にするのがそもそも無理がある話なんだろうなぁ……。

あと付け加えるとしたら、他力の信心を受け取ってない人は、「自分は100%正しい、自分こそが正しい」っていう観念に囚われてる。これは仏教を聞いていようが聞いていまいが関係なく、そうだと言える。
例えば「この世の中に絶対と言えることなんてない」っていう人がいるけど、これは「絶対なんてないって言ってる自分は正しい」っていうことだから、論理的にも矛盾してる。

仏法を聞いてない人は「自分が100%正しい」=「自分を信じてる」し、仏法を聞いてても自力の信心の人は「自分なら仏法を理解できるはず」「自分には仏法なんてわからない」「自分には仏の存在なんて信じられない」という感じで全て「自分が自分が」っていう「自分主体の判断」しか出来ない。自力の人も結局「自分こそが100%正しい」っていう観念から抜け出せないということ。

対して他力の信心を持ってる人は自分が正しいんじゃなくて仏法こそが真実なんだなっていうことを「理屈で説明できないけどわかる」という状態。それは何故かというと、妄想とか思い込みじゃなくて「仏さんから仏法を信じる心を貰ったから」。

他力の信心に救われた人はめでたく浄土に往生することが出来ますよというのが仏法の教えということになる。で、信心を受け取ってもらうために、仏さんは今こうしてる瞬間にも大忙しで働いてる。どうか聞いてくれ、どうか南無阿弥陀仏と唱えてくれって願ってる。

信じるも信じないも人それぞれだけど、僕は自分こそ正しいっていうスタンスで生きていくことに限界を感じたっていうのが仏法を求めるきっかけになったかなぁって思う。

追記:
うーん…。上に書いた内容は合ってるんだが…。こんなこと言うと余計混乱するかもしれないけれど、自力の信心の「自分こそが正しい」っていうのは、「実態はそうなんだけど自分ではそう思ってない状態」で、だからこそ気づきにくいところ。
他力の信心の「自分が正しいんじゃなくて仏法こそが真実なんだな」っていうのは、「自分は自分のことしか考えてない(=自分こそ正しいとしか思ってない)、自己中心のかたまりで、だからこそ仏法聞く耳も持ってなかった。地獄行きで当たり前だ」という極悪人としての自分を照らしだされてる状態っていうこと。

何が言いたいかと言うと、自力の人は「自分は自分が100%正しいなんて、そこまで思ってない」ということ。「自分はもうちょっと謙虚だ」って思ってるんだよね。その姿がまさに自己中心の地獄行きの姿なんだけど、とてもそんな風に自分を見つめることができない。
他力の人は「自分はもう自分のことしか考えてない、目の前の欲を満たすことしか頭にない。だから仏法聞く耳なんて最初から持ってない」という、「正しい人間の本性」をしっかり捉えているということ。

…余計わからなくなった?
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