ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

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人生の答えを探す旅・あとがき  

全10回の人生の答えを探す旅、いかがだったでしょうか。すんごい長かったですが、読んでくれて本当にありがとうございます。あとがきと称して、恐らくみなさんが感じてられる気持ちについて補足したいと思います。

まず率直に聞きますが、僕がこれまで書いてきた内容を信じられるでしょうか?

たぶん信じられる人はいないと思います。

ありえない。信じられない。おとぎ話にすぎない。と、話そのものを受け付けない人。
これが人生の答え?なんかしょぼいな。それってただの思い込みじゃないの?と、期待外れだった人。
あぁ~はいはい、わかるわかる、なんとなくそういうことね。と、自分の理解の枠に収めようとする人。

まぁいろいろな気持ちがわいていると思いますが、こんなところでしょうか。「どうやったら自分もそんな境地にたどり着けるんだ!?」ってなってくれた人がいたらすごくうれしいですが、もしいらっしゃったらメールでもなんでもしてください。

で、本題ですが、↑のような気持ちをわずかでも持っている人は間違いなく、遅かれ早かれ救われます。そして今ここで南無阿弥陀仏と唱えてみてください。もし今念仏を唱えた人がいれば、その方も同じように救われます。

もちろんここでいう救われるっていうのは、何かしらの形で「阿弥陀仏と対面する」ということです。概念や妄想で「神様が助けてくれるんだよ」みたいなことを言ってるわけじゃありません。

親鸞の主著「教行信証」の最後にこのように書いてあります。
「……もしこの書を見聞せん者、信順を因とし疑謗を縁として、信楽を願力に彰(あらわ)し、妙果を安養に顕(あらわ)さんと。」

この教行信証を読み解き、仏に救われんとする者は、「信順を因とし疑謗を縁として」つまり、仏法を信じる心(南無阿弥陀仏)を因とし(これは阿弥陀仏のほうで用意してくれてます)、仏法を聞いて起こる疑いの心や馬鹿にする心、見下す心、それらすべてを縁とせよ、と言ってます。

普通、宗教っていうのは真逆です。神がこうこう言った、教典にこう書いてある、それが真実だ、だから信じなさい、そうすれば救われる、そうじゃなきゃお前は不幸な目にあうぞ、というのがオーソドックスな宗教の流れです。

しかし親鸞は仏法はそういうもんじゃないというわけです。
何か人の話を一生懸命に聞こうとするときには、必ず疑問が生じます。もちろん知ってることばかり聞けばそんなことはありませんが、全く新しいことを聞けば「えっ本当に?」ってなるのが普通です。
ましてや見えもしないし聞こえもしない、証明のしようがない仏法なんか聞いたら、そりゃ疑いの心も馬鹿にする心も起きるってもんです。「ありえねぇ」って。

しかしそれこそ求道のあるべき姿なんです。それが正常な人間の反応です。
疑傍を縁とせよというのは、その疑いの気持ちや馬鹿にしたくなる気持ちを手掛かりに仏法を求めていけ、ということです。「なんで?」「信じられない」「仏教なんてどうせこんなもんだろ」という心こそが聞法していく上での手綱なんです。

人生にどこか納得できないという方。漠然とした不安を感じる方。入口はなんでもいいです。その気持ちを仏法にぶつけてみてください。必ず得られるものがあります。

あと、僕の体験記はこのような形になりましたが、信心を得る時の様子や受け取り方は人によって全く異なります。僕のようでならなければいけないということでは全くないので誤解のないように。僕のまねをしても信心が得られるわけじゃないです。あくまでも一例です。

僕はこれまでいろんな人の体験記を読んできましたが、誰一人として同じような信心の得方をしている人はいませんでした。しかし仏法について語り合うとその心はまったく同じであることがわかるのが不思議なところです。もちろん普段の生活の仕方も全く人それぞれです。

最後に…今の僕の心境ですが、これまでのように人生について迷ったり、漠然とした不安を抱えたり、ふいに焦燥感に駆られたりというようなことはなくなりました。自分が何者で、これからどうなっていくのか。そういうことがすべて信心を得ると同時にはっきりわかるからだと思います。(と言っても10年後どうなってるかみたいな未来を予測できるわけじゃないですよ。念のため。)

今後のこのブログですが、自分が勉強してきたことを書いていけたらなーと思います。仏法について語るべきところは山のようにありますので。

それじゃ、このシリーズは本当にこれで最後です。今後、体験記を書くことは…あるだろうか。どうだろう。でもお経の話より身近な体験の話のほうがわかりやすいだろうしなぁ。随時盛り込んでいくことでしょう。

ではでは、ここまで読んでいただいて本当にありがとうございました。南無阿弥陀仏。
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category: 求道

コメント

少し前回のコメントを補足しておきます。

西洋的な「個」に関しては
「関係性における自分」=「私」とは別の概念だと考えております。
「私」とはそれ自体に他者との関係性が内在されている言葉であり
それゆえ非常に移ろい易いのです、仏教でいえば無常でしょうか。
諸法無我(あらゆる存在には主体と呼べる我は存在しない)とも釈迦は言う。

いわゆる西洋の概念である個人主義の「個」は
たとえばキリスト教では「神による無条件の無制限の愛」によって
確立するわけです、つまり絶対者による無条件の肯定なので揺るがない。
私はここにキリスト教の「核」をみる、極論を言うと
イエスの主張はこの一点だけなのではないかと。
「神からの愛」は論理によっては否定できないのです。
(否定するにはまず神の存在を完膚なきまでに打ち砕く論理が必要)
「私は神に愛されている」ということを受け入れる選択をするか否か、それだけ。

阿弥陀仏信仰も個の確立というゴールは同じ。
ただキリスト教とはアプローチが違う、ゆえに

>僕のまねをしても信心が得られるわけじゃないです。あくまでも一例です。

というのはまさしくで、要は「個」が確立しちゃえばいいわけです。
そのアウトラインを定めた親鸞って人は本当に天才だったんだなぁとシミジミ思います。
親鸞は景教(キリスト教ネストリウス派)の影響を受けているのではという説もありますが、だからといって彼の功績がかすむわけでもないでしょう。

URL | けい #.4UciMsc
2014/04/18 06:22 | edit

求道の話、興味深く読ませていただきました。ゆとりさとるさんはこれから坊さんになるとか仏教を専攻する学者を目指されたりするのですか?

URL | 七紙 #-
2014/04/18 10:59 | edit

>けいさん
コメントありがとうございます。
けいさんはキリスト教についてお詳しいのですね。ただ、仏教とキリスト教は全く違うものだと思います。
まぁどっちかあってて間違ってるとか言い争っても水掛け論になるので、僕が言いたいことだけまとめますと、
キリスト教の教えで果たして本当に救われているのか、そしてただいま現在、その教えで自分の人生に納得がいくのか。
この納得がいくのかどうかが大切なところだと思います。僕はたまたま仏教と縁がありましたが、自分が納得できるものであればキリスト教でもイスラム教でもなんでもいいんです。
ただ、僕が納得する基準というのは自分でもいうのもなんですがとても厳しいと思ってます。その場限りの興奮やありがたい気持ちなんかに騙されちゃいけないと思いますし、そういうのは長続きしないですからいつかまた必ず、生きている意味がわからなくなります。
決して崩れない本物はあるのかないのか。それが僕にとっての納得の基準です。
けいさんもここにこうしてコメントされているくらいですから、何か今の自分にひっかかるところがあって読んでくれたのではないでしょうか。さまざまな宗教の教えはそれぞれきっと素晴らしいものなのだと思いますが、しかしそれで心の底から「生きていてよかった」と思えるでしょうか。
さらに突っ込んで言うなら、ポイントは「無条件」というところでしょう。この言葉を聞いたときに自分がどう受け止めるか、そこにカギがあるように思います。

>七紙さん
いやー全くそんなつもりはないです。お経あげたりするの苦手ですし。まず正座が無理なんですよ。なんで仏教関係の人はみんなあんなに正座できるんでしょうか……。
ただ、個人的にこれからも聴聞を続けていって、自分がわかる範囲でこうして発信していきたいとは思ってます。

URL | ゆとりさとる #-
2014/04/18 14:49 | edit

「疑いを縁に自分の内に絶対者(またはそれに準ずるもの)を作り出している」という
理解を私はしていますがその解釈に違和感があるならば
論理的に説明しても良いと思いますよ。

水掛け論になることを心配しているなら私は(納得しようがしまいが)
これ以降一切コメントしないことをここに誓いましょう。
(しかし私以外の方がぶっこんでくる可能性もありますね、
めんどくさいならスルーまたは削除していただいてもかまいません)

私の解釈にしても○○教とはこういうものだなんて決めつけることは
○○教も縁によって移り変わってくため
仏教に片足を突っ込んでいる者の立場ではないようにも感じますし
(これも矛盾か?仏教者が仏教を規定できるのか)
宗教とはもっとグラデーションに富んだものなんでしょうな。
私の解釈も牧師や神学者からみれば
鼻で笑うようなものなのかもしれません。


>さまざまな宗教の教えはそれぞれきっと素晴らしいものなのだと思いますが、しかしそれで心の底から「生きていてよかった」と思えるでしょうか

ここで宗教そのものを否定する言葉が出てくるのが面白いなぁと思います。
当然この言葉はゆとりさとるさん自身にも跳ね返ってくるわけですよね。
それ(疑い)によって信仰が深まるってことでしょうか。


>問題はその相手が本当に信用に足るかどうか…

前回の記事のコメントが
"信用に足るものが「絶対者」となる可能性"を示唆しているのも面白い。
信用と言う概念も縁に因るのにその信頼を因にしたものが「絶対者」たりえるのかなぁとか思いました。

キリスト教は無条件で愛してくれるのだから
無条件で信じる(または愛する)という"選択"をするか否かそれだけの宗教。
現時点ではそうとしか考えられないから新しい視点として
ゆとりさとるさんのキリスト教観をぜひ聞いてみたいんですよねー。


さあいよいよ大風呂敷になりそうなのでこの辺で失礼。
これからも更新楽しみにしてます。

URL | けい #.4UciMsc
2014/04/19 11:11 | edit

Re: タイトルなし

>けいさん
コメントありがとうございます。
>「疑いを縁に自分の内に絶対者(またはそれに準ずるもの)を作り出している」
これは違います。作り出しているのでなく、絶対者(仏)がいることを信じる心を「もらった」のです。自分が一生懸命勉強して信じられるようになったわけでもないです。あくまで「もらった」です。これは非常に大切なところなので今後詳しく書くこともあるかと思います。
水掛け論というのは、僕はキリスト教に詳しくないので、けいさんに「キリスト教においてこういうことだ」と言われても僕としては「いや仏教でこういうことです」としか言いようがないので、平行線になるかなと思ったのです。僕がキリスト教にも詳しければ会話が成り立つと思うのですが、申し訳ないです。
>ここで宗教そのものを否定する言葉が出てくるのが面白いなぁと思います。
僕自身は宗教なんてうさんくさい、信じられない心しかないです。仏教を信じられるようになったのは、信じる心をもらったからです。これは僕自身の本性とは違うところにあるものです。まぁもらってからは一体になるので区別できなくなるのですが…。
>無条件で信じる(または愛する)という"選択"をするか否かそれだけの宗教。
ここです。ここを突っ込んで考えてみてほしいです。そもそもその選択というのが本当にできるのか?キリスト教信者を自称すれば選択したことになるのか?もしそれで選択できているとして、それで自分が救われているのか?ということです。
僕は無条件という言葉ほど人間に相容れない言葉はないと思います。キリスト教観を書くことはできないですが、このあたりはぜひ書けたらなぁと思います。

URL | ゆとりさとる #-
2014/04/20 01:09 | edit

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