ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

人生の答えを探す旅⑩(最終回)  

あらすじ:人生の答えを求めて仏教にたどり着いた。仏法とは阿弥陀仏の力によって死後の大問題を解決するための方法論を説いたものであった。人間はすべて罪悪深重の地獄行き。しかしそんな人間を「目当て」に「必ず救う」の誓いを立てた仏さん。僕が救われるための条件は「南無阿弥陀仏」と一回だけでも唱えるということ。しかし、言われた通り唱えても何も起こらない。果たして仏法は嘘かまことか。今回はゆとりさとるの求道物語です。
以下、これまでの9つの記事を簡潔にまとめてみました。

因果の道理によって、自分のやった行いはすべて自分に返ってくる。自己中心的な生き方しかできない人間は、その報いによって死後、地獄の苦しみを味わうことが必定であるという。それを生まれ変わり死に変わり、何度も何度も繰り返している僕らの姿を見かねた阿弥陀仏が、法蔵菩薩という修行僧に成り下がってすべての人を救う誓いを立てた。
たとえわが身を毒の中に沈めても、必ず果たし遂げる。果たし遂げなければ、誓って私は仏になりません。48の誓いをたてて、ついに法蔵菩薩は阿弥陀仏へと成仏した。それが十劫の昔であるという。
その48の誓いの18番目、阿弥陀仏の本願によって、人間は極楽浄土へと生まれ変わる身になれる。その本願には「たった一度でもいい、南無阿弥陀仏と唱えてくれ」という願いがこめられている。その仰せをそのままいただき、南無阿弥陀仏と唱える一念のとき、親鸞にして「不可称不可説不可思議(言葉で説明することのできない、人間の理解を超えた現象)」と言わしめた「仏の救い」に遭うことができるという。

以上。そしてここからが僕の体験記です。

2014年になって、僕はこの仏の救いという境地を求めて華光会という聞法の集まりに参加し(まじで1月1日から行った)、仏教とはなんであるかを聞いていった。

念仏も唱えてみた。しかし、よくわからない…。そもそも、こんな目にも見えないことを信じろっていうほうが無理があるじゃないか。因果の道理はたしかにまぁそうかなと思うけど、地獄とか、仏とか、極楽とか…。死んだらどうなるかなんて、推測することはできてもやっぱり確信なんて持てない。

こんな思考の繰り返しだった。もう諦めようとか、あの人たちはおかしいとか、自分は救われないんだろうなとか、何回思ったかわからない。

けれどそのたびに、
「でもここであきらめて元の生活に戻ったとして、何があるんだ?親鸞をはじめ、多くの人が仏の救いを目の当たりにして、絶対の幸福とまで言わせている。しかもそれが死んだ後にわかるんじゃなくて、ただいま現在はっきりするとまで言わせている…」

……。

やっぱり、あきらめきれなかった。どうしてもその境地を僕も味わいたかった。

そしてまた仏法とはなんであるか、仏さまが何を思い、願い、行動して、それが今の僕にどのように届いているのか、本で読んだり法話を聞いたり、法話集のCDを聞いたりDVDを見たり、念仏したり考えたり想像したり、とにかくやれることをやりまくった。

けどどうしてもわからなかった。仏法を信じる?信心?わからない…。なぜこんなおとぎ話を信じられるのか、まったくわからない。

そんな風になってくると、日常のストレス、人生のストレスを仏法に向けるようになった。こんなもののために今僕はこんなに苦しんでるんだ。仏教なんて聞かなきゃよかった。中途半端に宗教なんてものに手を出すんじゃなかった。できるなら、仏教に出会う前の自分に戻りたい。。

こんなことをずっと考えていた。相変わらず何をやってもこれという手応えはないし、人生を楽しむなんて立場と正反対のところにいるような気がした。

けど記憶をリセットすることもできず、かといって仏に救われるわけでもなく、しかし因果の道理という理屈が中途半端にわかるだけに死後のこともなんとなく恐い。
前にも進めず、かといって後ろにも戻れない。けどこのままじっとすることもできないという三重苦の中に僕は生きていた。

この三重苦の中で、唯一打開策を見出すところがあれば、それは因果の道理だと思った。

物事には原因があって結果がある。これはまぁいい。
しかし、だからといって死んだら地獄に行くというのはちょっと論理の飛躍もはなはだしいんじゃないか?と思うようになっていった。

地獄行き。ここだ。これがわからない。もうこの際、仏の救いやら何やらはどうでもいい。そんなことは勝手にやっといてくれ。僕には関係ない。
でも、「このまま生きてたら、死んだあと地獄に行く」、この一文だけが僕にはすさまじく邪魔な一文だった。これから仏法のことを忘れて生きるにしても、こんなことを言われっぱなしなんて気分が悪い。

そもそも、地獄行きだからどうしろっていうのだ?肉を食うな、魚を食うな、悪口を言うな、人を傷つけるな、しかもそういうことを心の中で一瞬たりとも想像したり罵倒したりするな?

ありえん。なんだそれ。
そんなことしたら、「人間辞めます」って言うのとほぼ同じじゃないか。

僕は人間だ。仏から見たら悪の塊、いいこと何一つもできないクズに見えるのかもしらんが、そんな僕でも一生懸命生きてるんだ。嫌なこと、つらいこと、我慢してきたことだってたくさんある。それをなんだ?地獄行き?ふざけるな!!

よく考えれば仏法なんてとんでもない悪趣味なものじゃないか。会に行けばみんなが口をそろえるようにして「自分は悪しかできないなぁ」なんてわかった風な顔して言ってる。なんだあいつら。ありえない。そうやって自分を卑下して傷のなめあいをしてるだけじゃないか。
もう我慢できない。会にいって、あそこの人たちにこの気持ちをぶつけてやろう。地獄行きなんて言われてたまるか。

僕はまるで全人類の気持ちを代弁するかぐらいの勢いで聴聞の会場に向かった。

僕「質問があります」
僕「みなさん口をそろえるように地獄行き、地獄行きとおっしゃいますが、それは本当にそう心から思って言ってるんですか?」
会の人「いや……自分は悪いことをしてるなんてつもりはないよ。たまに罪悪感にかられることはあるにはあるけど、普段は全くそんな意識はないよ」
僕「じゃあお経にそう書いてあるから、それを知識として言ってるわけですか?」
会の人「いや、知識でもない。」
僕「……。」
僕「感情でそう感じてるわけでもなく、知識で言ってるのでもなければ、じゃあなんなんですか!?」
僕「その地獄行きっていう言葉はどっから出るんですか!?」


僕「仮に……仮に仏法で言われていることが真実だとして、それでみなさんは納得できるんですか?おまえは地獄行きだ、なんてことを言われて!!」
僕「どんな風に言われようが、僕はこれまで一生懸命生きてきた。そりゃ突き詰めて言えばすべて自分のためかもしれない。でもそれの何が悪い?誰にも迷惑はかけてないし、我慢してきたことだってたくさんある!」
僕「僕は嫌だ。地獄行きなんて認められない。因果の道理が正しかったとしても、僕はそんなの断じて認めない!!!」

なんかアニメのセリフみたいですが、マジでこんなようなことを言いました。僕の不満はたまりにたまりまくってたからね。

けどこれが終わった後、隣にいたおばちゃんが「なんだか自分の気持ちを代弁してくれたみたいで、聞いててスッとしたわ~」って言ってくれた。ほらみろ、やっぱりみんな心の奥底ではそう感じてるんじゃないか。当たり前だ。地獄行きなんて認めてたら人間やってられないに決まってる。

僕はすがすがしい気持ちで会館を後にした。言ってやった。とうとう言ってやったぞ。仏法にここまで逆らったのは僕が初めてなんじゃないか?はっはっは。これでもう仏法は終わりだ。もう二度と仏法なんて聞くものか。

意気揚々と帰っていたのだけれど、でもそんな気持ちはすぐに冷めてきた。

「僕は……一体何をしに行ってたんだろう。あそこの人たちは仏法を喜んでいる集まりだというのに、そこに乗り込んでこんなこと言って、わけがわからないやつと思われたに違いない」

「なんだか反抗期みたいな気分だな……。反抗して、やりたいだけやってすっきりしたけど、でもなんも残ってない。」

「……」

駅について、ホームに降りる階段をとぼとぼと歩いていた。

「僕に仏法を聞く耳なんてない。それはもう決定事項だ。仏が救ってくれるなんて言われても疑う気持ちしかないし、地獄行きって言われたら反抗する気持ちしかわかない。僕には本当にそれしかない。ここまで一生懸命聴聞続けてきて、結局残ったのはそんな醜い自分の感情だけだった。」

「だから、もう僕は二度と仏法を聞くことはないだろうな…。」

「けれど…」

「けれどもし、もし仮にもう一度、仏法を聞く機会があったのなら」


「その時は、自分の気持ち・感情を差し置いて、ただただそのままに仏法を聞きたい。純粋に仏法を聞きたい。そんな風に聞けたら、きっといいんだろうな……」



……その瞬間!!その一瞬!!仏法に対する懺悔と、仏法という鏡に照らされた「本当の自分」に出会い、それを受け入れたその一念の起こったとき!!!

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」

…………!?

は……!?

今、何が起こった!?

自分の口から、念仏が「出」た。
僕は……念仏を唱えようなんて微塵にも思ってない。むしろ、仏法に縁のない自分であることに気づいて、念仏なんて今後一生涯、わずか一回たりとも唱えることなんてないだろうということに確信をもったくらいだ。

そんな僕が念仏を唱えている…?ありえない……。しかし今、とめどなく溢れてくるこの念仏はなんだ……。明らかに口が自分の意志で動いていない…。

しかしその時の僕は、これまでに感じたことがないくらいに心はおだやかで、春の風が透き通るように心を流れているのがわかった。
あぁそうか…。これは、僕が言ってるんじゃない。僕の中にいる阿弥陀さんが言ってるんだな…。
ありがたい…本当に、仏様は僕を見捨てずについていてくれたのか…。
ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。


そうして僕は仏法を信じる心を「もらった」。
以前まではあれほどに仏法をバカにして、疑いの気持ちしかなかったのに、そんな僕のちんけなプライドのようなものが「丸々切り取られてしまった」。

不思議だ…。これが言葉を超えた世界か…。
確かに、今ならわかる。なぜ自分が生まれたのか、なぜこの世界で生きているのか。人生の意味。
決して崩れない、絶対の幸福とまで呼ばれる境地。
死後でなく「今現在」はっきりわかる心。

仏法に偽りなし、すべて本当だった。いや、本当であると「信じる心をいただいた」。

世間虚仮 唯仏是真

以上が僕の体験記です。書き足りないところは、また後日に書いていこうかなぁって思います。
質問もあればなんでも聞いてください。

ひとまずこれにて人生の答えを探す旅、完結です。
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category: 求道

コメント

わあ、とってもキリスト教的。
まさしく「私」ではなく西洋的な「個」を自覚されたのですね。

結局人間は何かに"無条件に"「あなたはそこにいていいんだよ」と
言って欲しいだけなのかもしれません。

子供の頃は母親がその役割を果たしますが
その存在はいつか消え去ってしまいます。
高い社会的地位や恋人でそれを補っても同じこと。

そのことにおびえる人はイデオロギーだったり
絶対者(神や阿弥陀如来)と呼べる存在に無条件に存在を
肯定されることを希うのかもしれません。

日本の若者は自らの存在を無条件で肯定する
宗教的方法論が無い状態で過酷な競争に巻き込まれちゃうんですよね。
日本における20代の若年層(母親の保護から離れたばかりの状態)の
自殺率の高さと(日本における)キリスト教の普及率の低さには
どこか関係がありそうな気がします。
ユダヤ人や中国人のように強固な血縁関係をもって
世を渡っていく方法もないですからね。

URL | けい #.4UciMsc
2014/04/17 10:31 | edit

Re: タイトルなし

>けいさん
読んでいただいてありがとうございます。
西洋的な個…というのがどういうものかわかりませんが、「自分にしかできない能力・個性」といったものではなくて、人間の本質のようなもの、ということでしょうか。そういう意味ならばその通りです。
>結局人間は何かに"無条件に"「あなたはそこにいていいんだよ」と言って欲しいだけなのかもしれません。
全くその通りだと思います。そういう相手を常に求め、環境を求め、生きていると思います。問題はその相手が本当に信用に足るかどうか…というところですね。
>日本の若者は自らの存在を無条件で肯定する宗教的方法論が無い状態で過酷な競争に巻き込まれちゃうんですよね。
確かに半端に科学が発達してしまってるせいで、信仰という逃げ道は絶たれている気がします。でもいいんじゃないでしょうか。それだけ「本当に頼るべきものは何か」ということを考えるチャンスじゃないかなって思います。まぁそれは僕のことですが。

けいさんはキリスト教を引き合いに出されますが、キリスト教だけに限らず宗教がはやらないのは「確固とした証拠がないから」だと思います。信じろって言われても信じられない。一度信じて裏切られたら怖い。これが人間の本性じゃないでしょうか。
逆に新興宗教が流行るのは、「信じたら本当に運がよくなった」みたいな実績があるからでしょうね。わかりやすくてとっつきやすいです。

URL | ゆとりさとる #-
2014/04/17 11:48 | edit

人生の答えを探す道、少しどきどきしながら拝読いたしました。

読み終わった今の自分の心境は、ゆとりさとるさんが南無阿弥陀仏と唱える前の心境と同じ様なものなのかなと考えています。
正直、期待していたものとは違っていました。
けいさんも書かれているように、無条件という言葉が鍵となっているのかなと思います。
これを読んだだけで無条件に自分が救われるなんて思えませんから。

それにしても、あまりにも解せないと感じられる部分があるのですが……
ゆとりさとるさんが南無阿弥陀仏と無意識に唱えられた後、仏を信じる心を頂き、救われたと感じられるのはわかるのですが、その後の

確かに、今ならわかる。なぜ自分が生まれたのか、なぜこの世界で生きているのか。人生の意味。
決して崩れない、絶対の幸福とまで呼ばれる境地。

という部分です。
この部分まではある程度共感できていたのですが、ここで急に置き去りにされた気分になりました。
僕は人生に意味なんて無いと思っているので、それをどうしても求めたいという気持ちは無いのですが、それでも時々そのことを考えてやるせない気持ちになってしまうので、それが解決できたら良いなと思っています。

ゆとりさとるさんに解決してもらおうなんて思っていませんが、ほんの僅かでもその手掛かりを頂けたらとても嬉しく思います。
もっとも、これまでのブログの記事だけでも本当に色々感じさせてもらえて、ありがたく思っています。

これからもブログの更新をされるのかわかりませんが、楽しみにしています。

URL | みつ #vFnCX3ek
2014/04/17 23:19 | edit

Re: タイトルなし

>みつさん
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
>正直、期待していたものとは違っていました。
>これを読んだだけで無条件に自分が救われるなんて思えませんから。
そうですよね。僕も当初自分が思い描いていた「人生の答え」とは全く違う形での結果になったことには驚いています。しかし、同時に限りなく満足もしてます。今は去年の頃のような「何のために自分は生きてるんだろう」という焦燥感はありません。
>この部分まではある程度共感できていたのですが、ここで急に置き去りにされた気分になりました。
それは、僕も書いてて「わかってもらえないだろうな」とは思いましたがあえて書いたところです。信心をもらった後と前とで明確に変わるところがあるということです。これは言葉を超えた世界なので、いくら説明してもわけがわからないと思います。
>それでも時々そのことを考えてやるせない気持ちになってしまう
この気持ちはとても大切です。あとがきをこれから書こうと思ってるのですが、けいさんのこのコメント文は求道していくうえでは本当に重要なところです。普通に生活をしていれば、なんだかもやもやした感じ、ということになると思いますが…。

URL | ゆとりさとる #-
2014/04/18 01:53 | edit

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