ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

人生の答えを探す旅⑨  

今回は仏さんの心をもう少し噛み砕いて書いていきます。

前回の記事のお経エピソードを見て「はぁなるほど」と思った人はいないと思う。
七高僧のところで書いたように、これを原典として「仏が本当に言いたかったことはなんだったのか」が盛んに議論されてきたわけ。で、その解釈は親鸞の時代で一つの結末を迎えるわけなので、今回はその解釈のほうを述べたいと思います。

まず、なぜそもそも法蔵菩薩はすべての人を救おうと思ったのか、その必要性がどこにあるのか、というところ。

僕らは普段、意識するしないにかかわらず「自分の価値観」「自分のものさし」でもって物事の良し悪しを測ってるよね。犯罪をする人は悪い人、ボランティアをする人は良い人、今日のご飯はおいしかったとかまずかったとか。いろんなことを自分の基準で裁いていってるといってもいい。

仏教では、それら人間のなすこと言うこと思うことすべてが地獄行きの姿であると教えられてる。今日僕は家に帰ってきて手を洗ったけど、それも地獄の行い。ご飯食べるのも地獄の行い。野球見て「あー三振かー」って言ってるのも地獄の行い。「ごちそうさま」って言ってるのも地獄の行い。おやすみなさいって言って布団かぶるのも地獄の行い。呼吸してるのも地獄の行い。

これ聞いてどうですか。はぁあああ?って思わない?僕は思った。ありえん。

何がありえないかというと、そんなこと言われたら自分は本当に地獄行きみたいじゃないか、って思うわけよね。今こうしてブログ書くためにキーボード打ってるのも、その一つ一つが地獄行きの所業でしかないなんて信じられない。信じられないけど、仏教ではそう教えられている。

なんでそんな何気ない動作一つ一つまでもが地獄行きといえるのか?

そもそも仏教での善悪の基準とは何かというと、「自分に執着せず周りのためを思ってする行動」が善で、「自己中心的・自意識の塊でとる行動」が悪なんだよね。(これはかなり一面的な言い方ですが)

例えば洋服。今みなさん何かしら洋服を着ていると思う。僕も着ている。まぁ全裸の人もいるかもしれないけど、それは一時的なもんであって、一生全裸で過ごす人はいないでしょ。

どんだけ服に無頓着な人でも、夏物もあれば冬物もあるし、パジャマもあれば普段着もある。スーツもあれば下着もある。しかもその一つ一つにお気に入りがあって、他人の目も気になるし、年代を経るごとにも変わっていく。

そして服を買うにしても着るにしても、うまくいくときがいかないときがある。いいデザインの服が買えたらさっそく着てみたいし、自慢したい。けどそれが翌日バーゲンで半額になってたってわかったら、途端に腹立たしい。自分が出した金を返せって思う。前日までずいぶん喜んでたのにね。

それに、一度買った服はなかなか捨てられない。もう何年も着てないけど家にあるってのはたくさんあると思う。いつ着るのかもわからないくらいだけど、でも捨てようとまではいかない。なんかもったいない。
さらに、そのお気に入りの服の中でも優劣があって、ここ一番の勝負服と普通の服とがある。誰もそんなこと気にしてないのに同じ服で行ったら貧乏なやつって思われそうで嫌だとか、そういう心理が働くよね。

着るものだけでこれだけの心の動きがあって、ショーウインドウを見ては欲の心が起きて、他人の服や雑誌を見ては優越感だとか劣等感だとかを抱いて、捨てるのを惜しんだり、勝手に捨てられたら怒りの心もわいてくる。別に自分自身が傷つけられたわけでもないのに、服にシミをつけられただけですんごい嫌な顔をする。

こういうのがすべて悪だっていうわけ。すべて自己中心的で、自分だけがかわいい、自分を受け入れてほしい、認めてほしいの心しかない。服だけでここまで言えるわけだから、食事やらお金やら趣味やら仕事まで言い出したらもうきりがない。

24時間、大忙しで地獄行きの罪を作っているっていうのはこういうことなんですね。なんですねって言ってるけど僕がそう思ってるわけじゃないからね。あくまで「仏の目線」の話をしてます。

で、因果応報の道理によって縁がきたらその報いを受けるというわけ。ここでいう縁というのは死後のこと。魚を一匹食べたなら自分も魚に一回食べられなきゃいけない。そうじゃなきゃつりあいが取れないわけです。

そうやって自己中心的な生き方をしては報いを受けている哀れな姿をみて、法蔵菩薩は自分こそ必ず救ってみせると大きな誓いを立てられたというわけ。それが「願わくは、わたしも仏となリ、この世自在王仏のように迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。」ということ。

ではどうやって救うのか。法蔵菩薩は五劫(一劫は43億2000万年)の長い間、思いをめぐらしてどうすれば迷い、傷つけあっている命を救うことができるのかを考え抜いた。そして出来上がったのが「南無阿弥陀仏」という名号だtった。

南無阿弥陀仏っていうのは知らない人からするとただのどこぞの宗教の謳い文句くらいにしか見て取れないんだろうけど、これにはものすごい功徳がつまってて、釈迦がどれほどの長い時間その功徳をほめたたえようともたたえきれないとまで言わせたすごいものなんだよね。

具体的にどうすごいかというと、これ一つ唱えるだけで地獄行きの報いをすべて取り払ってくれて、しかも本来なら果てしのない時間をかけて修行しないと得られない真理の悟りを得て、死後は極楽へ確実に生まれさせてもらえるというすごいものなんだわ。

それは誰のおかげでそんなすごいものが出来上がったかというと、すべて法蔵菩薩の修行のおかげということ。

世自在王仏は「たとえばたったひとりで大海の水を升で汲み取ろうとして、果てしない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころをこめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しとげ、どのような願でも満たされないことはないであろう」といったけれど、法蔵菩薩は「たとえ身が毒に沈もうとも、努めて励んでやりとげます」と誓った。

その毒というのは、まさに今こうして生きている僕が日々生み出している地獄という名の毒なわけなんです。その報いはすべて自分が一身に受け止める。だから、どうか早く南無阿弥陀仏と唱えてくれ、というのが仏さんの心なわけです。

仏教は今生の生き方を否定したり、強制するものじゃない。生き方は自由でいいんです。価値観もひとそれぞれ。性格だって能力だって違うんだから、当たり前です。ただ、一度死んだら、生きていた間にせっせと築いた罪業の報いを受けるということ。これだけが仏さんの心配の種なわけです。地獄の苦しみはたとえることができない。例えられるような相応のものがないからです。仏さんはそれを知っているからこそ、南無阿弥陀仏という誰でも唱えられる形になって、十劫の昔から「早く我が名を呼んでくれー!」と叫び通しなわけです。


と、阿弥陀さんの心を解説しましたがどうでしょうか。僕はこれを聞いてもよくわかりませんでした。なんとなくありがたい話なんだなってのはわかるけど、でもだからどうしろと?という心が浮かんで離れなかった。南無阿弥陀仏と唱えろって言っても、普通に言っても全然何か変わったことがあるわけでもなし。

次回はそんな僕がいよいよ仏法が真実と知らされる時がやってきた場面について書きます。
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category: 求道

コメント

わかりやすい解説ありがとうございます。
僕もゆとりさんのお話を聞いて仏教とは何であるかがわかってきました。
わかったのですが、やはり夢物語にしか聞こえないので(実際そうなのだけど)このお話がどう繋がっていくのか期待してます。

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2014/04/16 08:55 | edit

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