ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

人生の答えを探す旅⑧  

あらすじ:万人共通の生きる意味なんてあるんだろうか。それを求めて仏教の勉強会に足を運んだが、そこでは人間はみな一様に地獄行きであり、仏の救いによってその解決を図るのが人生の目的であるということが教えられていた。
さまざまな人の意見を聞くためほかの真宗の会に参加したが、そこでは多くの人が仏の救いという体験にあっていた。本当にそんなものがあるのかないのか、それを見極めるための僕の聞法が始まる。今回は仏さんが人間を救うためにどうしたのか、そのいわれについて書きたいと思います。

さて、そんなわけで僕も仏の救いという体験が本当にあるのかないのか、とことんまで行ってみようということでひたすら聴聞に励んでいた。「仏教は聴聞(ちょうもん)に極まる」という言葉あって、よく「どうすれば救われますか?」という質問があるのだけれど、それは聴聞しかない(法座に出る・発言をする・書物を読む、など)ということなんだよね。

そうなるとじゃあ何を聴聞すればいいのか?ということになってくる。仏教って一口に言ってもその量は膨大で、お経だけでも全部で7000巻以上あるといわれてるし、その解釈をめぐっていろんな学者が見解を示した著書も含めるともうとてつもない分量になる。

そんな中で「これぞ釈迦が本当に言いたかったことだ」という部分を見極めて、後世に伝えてくれた人たちがいる。仏教の発祥の地であるインドから中国(シルクロード)そして日本へと渡ってくる中で、物理的にお経を運んでくれた人もそうだし、言葉を翻訳してくれた人もそうだし、そして何より仏の救いという極めて微妙で言葉で表現しきれないところを発見してくれた人たちがいた。

それが七高僧という人たち(気になる方は調べてみてください)で、この人たちなくして自分は仏の救いに遭うことはできなかったと親鸞は著書で述べている。

親鸞の著書ももちろんその七高僧の教えを受けて、さらにわかりやすく誤解の無いように後世の人たちに伝えるために書かれたものなんだけど、いろいろ経緯は省いて最終的に肝心なところだけいうと、親鸞は仏に救われるということを「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と言っている。

仏の願いについて、「なぜそんなことを願われたのか」「その内容はどういうものであるか」「その結果どうなったのか」を聞いて、「そのことに対して疑う気持ちが無くなったとき」、仏の救われるというわけ。

この疑う気持ちが無くなるのがすげえ難しいんだよーとかいう僕の感想や体験はまた今度書くとして、今回は仏願の生起本末について書きます。(大無量寿経というお経の抜粋です。これは阿難という弟子に釈迦が阿弥陀仏の功徳を説いているシーン)


釈迦「今からは考えることができないくらいはるか昔に、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏がいた。そのときある国にひとりの国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起し、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。才能にあふれ志は固く、世の人に超えすぐれていた。
この法蔵菩薩は、世の仏がた(※注:地球では釈迦だけが仏だけど、宇宙にはガンジス川の砂の数ほどの仏がいると言われている)をたてまつって、その功徳がとても広大であり、智慧もまた深くすぐれていることを讃嘆し、
『願わくは、わたしも仏となリ、この世自在王仏のように迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。』……
『わたしは誓う、仏となるときは、必ずこの願を果しとげ、生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう。』……
『わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。』……
『たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。』……
法蔵菩薩はこのように述べおわってから、世自在王仏に、<この通りです。世尊、わたしはこの上ないさとりを求める心を起しました。どうぞ、わたしのためにひろく教えをお説きください。わたしはそれにしたがって修行し、仏がたの国のすぐれたところを選び取り、この上なくうるわしい国土を清らかにととのえたいのです。どうぞわたしに、この世で速やかにさとりを開かせ、人々の迷いと苦しみのもとを除かせてください>と申しあげた。……

そこで世自在王仏は、法蔵菩薩の志が実に尊く、とても深く広いものであることをお知りになり、この菩薩のために教えを説いて、< たとえばたったひとりで大海の水を升で汲み取ろうとして、果てしない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころをこめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しとげ、どのような願でも満たされないことはないであろう >と仰せになった。……
そして法蔵菩薩のために、ひろく二百一十億のさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、菩薩の願いのままに、それらをすべてまのあたりにお見せになったのである。
そのとき法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。そして五劫(※注:一劫は43億2000万年)の長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取ったのである。……
そこで法蔵菩薩は、世自在王仏に向かって、<では、どうぞお聞きください。わたしの願を詳しく申し述べます> といって、次のような願を述べたのである。」

(一) わたしが仏になるとき、わたしの国に地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
(二)わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が命を終えた後、ふたたび地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
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(十八) わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
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(四十八) わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに音響忍・柔順忍・無生法忍を得ることができず、さまざまな仏がたの教えにおいて不退転の位に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

釈迦「そのとき法蔵菩薩は、この願を述べおわってから、次のように説いた。」

(重誓偈)
わたしは世に超えすぐれた願をたてた。必ずこの上ないさとりを得よう。
この願を果しとげないようなら、誓って仏にはならない。
わたしは限りなくいつまでも、大いなる恵みの主となり、
力もなく苦しんでいるものをひろく救うことができないようなら、
誓って仏にはならない。
わたしが仏のさとりを得たとき、その名はすべての世界に超えすぐれ、
そのすみずみにまで届かないようなら、誓って仏にはならない。
欲を離れて心静かに、清らかな智慧をそなえて菩薩の修行に励み、
この上ないさとりを求めて、天人や人々の師となろう。
不可思議な力で大いなる光りを放ち、果てしのない世界をくまなく照らして、
煩悩の闇を除き去り、多くの苦しむものをひろく救いたい。
智慧の眼を開いて無明の闇をなくし、
迷いの世界の門を閉じて、さとりの世界の門を開こう。
すべての功徳をそなえた仏となって、そのすぐれた輝きはすべ
ての世界に行きわたり、
太陽も月もその光りを奪われ、天人も輝きを隠すであろう。
人々のためにすべての教えを説き明かし、ひろく功徳の宝を与えよう。
常に人々の中にあって、獅子が吼えるように教えを説こう。
すべての仏がたを供養し、さまざまな功徳をそなえ、
願も智慧もそのすべてを満たし、世界中でもっともすぐれたものとなろう。
師の仏の何ものにもさまたげられない智慧がすべてを照らし尽すように、
願わくは、わたしの功徳や智慧の力も、このもっともすぐれた
仏のようでありたい。
この願いが果しとげられるなら、天も地もそれにこたえて打ち震え、
空からはさまざまな天人が美しい花を降らすであろう。

釈迦「法蔵菩薩が、このように述べおわると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせた。そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、< 必ずこの上ないさとりを開くであろう > とほめたたえた。ここに法蔵菩薩はこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのである。」

阿難が釈尊(※注:釈迦のこと)にお尋ねした。
「 法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか。あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか。それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか 」
釈尊が阿難に仰せになる。
「 法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたところにあって、名を安楽という 」
阿難がさらにお尋ねした。
「 その仏がさとりを開かれてから、どれくらいの時が経っているのでしょうか 」
釈尊が仰せになる。
「 さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っている。……」



と、いった具合です。(十八)のところに出てくる念仏っていうのは「南無阿弥陀仏」のことね。この南無阿弥陀仏という言葉の意味も今度書きます。あと法蔵菩薩っていうのは阿弥陀仏が人間に成り下がって出てきた仮の姿らしい。仏のままじゃ人間に声を伝える術がないから、菩薩になってこうして伝えてくれたと。

さて、このお経に書かれた法蔵菩薩のエピソードの真偽・解釈をめぐって、浄土真宗は何百年も大騒ぎしてる。それも親鸞が死んでから今までずっと、だいたい800年弱かな。
「これはただのおとぎ話だ」とか、「十劫の昔に法蔵菩薩はさとりを開いてるんだから、自分たちはすでに救われてるんだ」とか、「念仏さえ唱えていれば大丈夫だ」とか。

親鸞もこのことについて誤解が生まれやすいことを承知でよくよく聞き誤らないようにと著書を残しているわけだけど、その文章がまたいろいろな解釈ができるもんだから、結局みんなそれぞれの解釈で主張しあっている。言葉って難しいなぁ。

まぁ僕はそんな学問的な解釈の真偽なんてどうでもよくて、「自分の実感として本当に仏に救われるということがはっきりするのかどうか」というところだけが気になってたので、必然的に「それはもちろんはっきりする」って言ってる派閥のところに話を聞きにいってたというわけ。それをやってみて自分的に納得のいくものであればそれでよし、納得いかなれければ仏教はもういいやっていう。

仏願の生起本末を聞いてみなさんどうだったでしょうか。これを見た皆さんはもういつ仏に救われてもおかしくない状況にあるんだけど、そんな感覚ないぞ…という人のために次回からは僕が求道していくうえでもがき苦しんだところをいろいろと書き綴っていければなぁと思います。

ただし、どんな形で仏さんに救われるのかは本当に人それぞれです。電撃が走ったように南無阿弥陀仏が出てくる人もいれば、泣き崩れて仏さんを拝む人もいれば、「あっそうなん」ってな具合にぼんやりわかる人もいれば、長い時間かけてしみじみわかる人もいる。もちろんそこに至る過程も本当に千差万別です。なので僕の体験記を書くには書くけれど、「そういう風に思えたら自分も救われるのか」というような読み方はしないでください。

では次回へ続く。
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