ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

誰もが幸せになれる価値観はあるのか  

ケーキ


この前の関東集まる会でちらっと「誰もが幸せになれる価値観はあるんじゃないかって思ってる」というようなことを言ったんだけど、ほんとにちらっと言っただけだったので今回はそれについて書いておこうと思う。



ここでいう誰もがっていうのは文字通りみんなという意味ね。だから能力の高い低いとか財産のあるなしに関わらず、それこそ生まれてすぐに死んでしまうような子どもとか事故や病気に苦しめられている人にも当てはまる何か、ということを言ってる。

このテーマに関して僕はまだ自分なりの答えは見つけられてないんだけど、これを見つけるのがなんとなく心の片隅で目標になってるような気がする。というのも、誰もが幸せになれる価値観を見つけられるということは、イコール自分がどんな状況になったとしても幸せを感じられる価値観を持てるっていうことなわけで、そんなお得な価値観ならあった方がいいに決まってるからなんだよね。

僕のこれまでの人生は「これが出来るようになったら幸せになれる、これを手に入れれば幸せになれる」みたいに、能力なり物なり人間関係なりを積み重ねるタイプの人生だった。でもそれで感じられる幸せには限界があるというか、そもそもそんなことしても幸せになんてなれないんだなってことに気付いた時に、そういう「積み重ね」とか「努力」みたいなものが幸せとは何ら本質的に関わりがないっていうことに気付いたんだよね。

何か僕の中での幸せのイメージって選ばれた人とか人格が優れた人しかなれない狭き門みたいなイメージがあったんだけど、そうじゃないんだろうなっていうことに気付いた。というかそうだったら困るじゃん。「整理券は100枚まででーす。後の方はお帰り下さーい」みたいなのが幸せの正体だとしたら、その整理券を貰った100人以外は一体なんなのっていう話になる。

そんなのが本当の幸せなわけがないというか、もしそれが幸せなんだとしたらこんな人生興味ないというか、誰もが幸せになれる価値観があるって信じてるほうがそれだけで幸せになれる気がするから僕はやっぱりそう思うことにしたという感じ。

なんか、同じ人間っていう括りの生き物なんだからその種類の個体全てに共通する幸せはあってもいいんじゃないのかなって思う。で、それは本能とか欲望みたいな一時的なものじゃなくて、穏やかでずっと安心感を覚えられるような暖かい何かなんじゃないかなって思うんだよね。思うというかそうであって欲しいというだけだけど。

例えば空が青くて清々しいなぁーってタイプの感覚を幸せだと思ってる人(僕は残念ながら思ってしまってるんだけど)は、でもじゃあ目が見えなくなったら幸せじゃなくなるの?っていうことになるよね。つまり何か体を使って感じられる幸せが幸せだ!って思ってる人っていうのは、もし事故で全身不随になったらもう幸せじゃなくなるわけよ。でもそれはおかしいと思うんだよね。

何が言いたいかというと、何かしらの能力(これは人としては当たり前だと思われている体の機能なんかも含めて)を使わないと感じられない幸せってそれだけで「条件付き」になってるわけだから、万人に共通の幸せだとは言えないということ。

障害者の人を見ると「かわいそう」とか同情したくなるけど、それは素晴らしく上から目線というか甚だしい勘違いであって、体の機能を満足に使わないと幸せだと思えないという点から見ると、むしろ僕らのほうが「かわいそう」になるんだと思うんだよね。ないと満足できない人よりも、なくても満足できる人のほうが幸せに決まってる。

そんなわけで僕が考える万人にとっての幸せというのは、具体的な答えはわからないけれどなんとなくイメージはつく。とりあえず何の準備も作業もなく今すぐ幸せになれるはずということとか、何の能力もいらないはずということとか。それは言ってみれば心の問題ということになるんだろうなぁ。

あとはさっきも言ったように、そんな都合のいい幸せの価値観というのがほんとにあるのかどうかはわからないけれど、在ってくれた方が僕が助かるし、在ると思ってるほうが幸せだからとりあえず在ると思ってるという感じだ。信仰…なのかなぁ。

とにかく、「自分は幸せになれたけど他の人には無理じゃないっすかー?」みたいな幸せって幸せじゃないと思うんだよね。そんなのくだらねー。

でもまぁ…実際は目とか耳とか肌とか、あるいは能力や環境にすごく救われてるし幸せだと感じてしまってるんだけどね。でも全身不随になったらマジでどうしようかなーってなんとなく思ってるのは間違いないわ。

関連記事

category: 未分類

コメント

壮大なテーマですね
これは一生のテーマになるのかもしれません。
仏教の宗派に浄土真宗が念仏さえ唱えれば極楽浄土に行ける。これはどんな罪人であっても障害者であってもです。
この点から見てもテーマに近い考え方ではないでしょうか
それまでは修行を積んだ選ばれた者だけが極楽浄土に行けると言われていましたから
何かしらヒントになるかもしれませんね

URL | ラジオスター #-
2013/06/26 23:25 | edit

Re: タイトルなし

>>ラジオスターさん

僕のブログはちょくちょく仏教的ですねって言われます。特に仏教に接して生きてきたわけではないんですけどね。「より良く生きる」ということを考えると同じような方向に行くのかもしれません。

浄土真宗の「念仏さえ唱えれば極楽浄土に行ける」という話ですが、じゃあ念仏を唱えられなかったら行けないのかとか、死んでから幸せになりたいんじゃなくて今幸せになりたいんですなどのような方向性の違いはあるものの、でも誰でも救われるんですみたいな考え方は良いなぁって思います。

URL | ゆとりさとる #-
2013/06/27 00:39 | edit

究極の問題

初めてコメントします。
これは究極のテーマですね。

ただ一つ思う事は、幸福感は周りにどうしても影響されるのかなという事です。

自分は今会社を自ら辞め無職で、現にその事で自分を責めたり、やっぱり早く就職
しなければとか、高度経済成長時の典型的な価値観からどうしても脱却できず、も
がき苦しんでます。別に無職は罪でないのですが。

あと一つ違和感に思う事、自分が精神的に衰弱してもう生きる事に
正直疲れたと親にこぼした時、五体満足なのに甘いとか、世の中には
生きたくても生きれない人がいるんだとか。

それは多分障害者とか、病気の人とか、それぞれの幸福のハードルは違っていて、
それを一緒くたに考えているから、悩んでいる人に対してまったく納得いかない
言葉になるのだと思います。

それぞれの人にそれぞれの幸福があるのだと思いますが、日本のマイノリティ(無職)
になってしまった今、それを感じとる事は困難ですし、社会の仕組みもマイノリティに
は容赦ないです。

いつの時代も、マイノリティは不遇なんでしょうか。
悟りを開きたい今日この頃です。

URL | スキーキャプテン #-
2013/06/27 10:14 | edit

Re: 究極の問題

>>スキーキャプテンさん

コメントありがとうございます。
確かに僕らが想像できる範囲の幸せって、どう足掻いても環境とか能力なんかの条件が必要になってしまうんですよね。で、それって言ってみれば人それぞれということになってりますし、僕だって今やってることというのは全て「自分なりの幸せ」に過ぎないと思います。
ですがそういった「人それぞれの幸せ」とは別に、「人間として生まれたからには必ず感じられる絶対的な幸せ」があってもいいんじゃないのかなって思うわけです。想像も出来ないんですけどね。

マイノリティは不遇…というのは、能力や環境によって叶えられる「人それぞれの幸せ」のことだけを考えると不遇ではありますね。僕も自分がマイノリティな生き方をしているので、これまでそういった自分の性格というか人間性を疎ましく思ったことは何度もあります。ただ、そういう壁にぶつかるのって遅いか早いかの違いであって、実はみんなマイノリティなんじゃないのかなって思うんです。「普通」という性質の人間がいるわけじゃないですからね。
なのである意味早く気付けてよかったかなーと思ってます。どうしても他人を羨ましく思ってしまうけれど、でも今の自分の状況で出来ることを考えるしかないわけです。休んでもいいし悩んでもいいと思いますが、そうすることでしか前には進めないような気がします。

URL | ゆとりさとる #-
2013/06/27 14:23 | edit

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://hjkd8yg.blog.fc2.com/tb.php/228-56e29c10
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)