ゆとりさとるの日々

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自分の価値を決めるのは何か  

見つめている


この前の集まる会で話していた時に「自分の評価とか価値はどうやって決まるだろうか」みたいなことを話していて、面白そうだから僕も混じってた。僕は「自分の価値は自分で決めているものだ」と思っている。誰に決められるでもなく、判断されるわけでもなく、それはなんだかんだ自分なんじゃないだろうか。



「いやー、やっぱ他人の評価でしょ。比べる他人がいて初めて自分っていう存在があるわけだし。」みたいなことを言われたんだけど、それは言ってみれば「他人の言葉を自分の中での評価基準にしている」というだけであって、評価基準そのものを決めているのはやっぱり自分なんだよね。

テストで98点を取った人は学年1位で親からも先生からも称賛の嵐なんだけど、でもそれでその人が「あぁ良かったー」と思えるかどうかってわからない。だってその人が「自分は絶対100点を取る。100点以外は0点と一緒だ!!」くらいに自分に厳しい人だとしたら、例え98点だろうが学年1位だろうが関係ないわけだよね。その時の自分の価値は0点取った人と一緒ってことになる。

逆に平均以下の点数である60点を取った人で「おまえは相変わらず勉強できねーな」なんて言われたとしても、その人が普段30点とか40点しか取れないような人で、「自分はなんてダメなんだ。60点を超える点数なんて取ったこともないよ」とか考えてる人だったとしたら、すごくうれしく感じるっていうことになるよね。

というわけで自分の生きてる価値とか評価っていうのは、まずは「自分で自分をどう思ってるか」で決められるんだと思う。けどそれだけで生きられる人って言ってみれば天才とか奇人変人みたいな感じなわけで、他人と関わっても一切ブレることなく生きられるんだろうけど、普通は他人の言葉や他人にどう見られているかが気になるものなわけで。

このタイプの人(っていうかほとんどそうだろうけど)はさっきも言ったとおり、「他人の言葉を自分の中での評価基準にしている」わけだよね。言い換えれば「他人の言葉を信用している」っていうことになる。その信用度合いはもちろん人によってそれぞれで、親に言われたことなら100%信じる人もいれば、友達なら60%くらいとか、嫌いな人なら10%とか、まぁ数値化できるものじゃないだろうけどなんとなくその人の中で決められてるものなんだと思う。「お前ってほんま○○やなぁー」ってセリフで同じ内容を言われたとしても、それを言ってる人によって自分の中での衝撃度合いが変わるというわけ。

なので前者(自分の信念や考えがそのまま自分の評価になっている人)であろうと、後者(他人の言葉や評価を自分の評価としている人)であろうと、最終的にそういう「スタンス」の自分を作り上げているのは自分自身なんだろうな、っていうのが僕の主張。

集まる会の時はここまでしか話をしてなかったんだけど、問題は「じゃあ前者と後者のどっちがいいのか、どうすれば自分は元気に不安なく生活できるのか」ということなんだろうと思うんだよね。で、この話をするためにはどちらの方法もメリットとデメリットがあることを知っておかないといけないんだと思う。

前者は自分の信念や正義に従って生きているので強いといえば強いんだけど、その代わり壁にぶち当たった時が悲惨なんだよね。なんだろうなぁ、イメージとしては目隠しをした状態で全力疾走してる感じかな。だから怖いもの知らずというか、上手く行ってる時は誰よりも強さを発揮するんだけど、でも基本的に周りが見えてないから何か起きた時はそのツケが一気にくる。

後者は常に周りとの距離感やどんな障害があるかを見ているので、前者に比べると頭をぶつける可能性は低い。だから自分が大きく傷つくことはないんだけど、でもいつも周りを気にしてばかりになるので精神的な疲労がすごいし、キョロキョロ周りを見てばっかだから気が付くと最初に「こっちへ行こう」と思っていた方向とはどんどんずれていくことになる。

つまりどっちも限界があるんだよね。バランスとかいう問題でもないと思う。そんな都合よく「この時は目隠しして全力疾走して、この時は障害物をよく観察して器用に避ける」なんて真似が人間にできるような気がしない。じゃあどうすんねんということなんだけど。

僕が思うに、「そもそも自分の価値とか評価とかを決めようとしていることが不幸の始まりなんじゃないか」っていうことなんだよな。さっきの前者の生き方にしろ後者の生き方にしろ共通してるのは「どこかへ行こうとしている」という姿勢なわけだけど、「そもそもどこかへ行く必要が本当にあるのか?」と僕は言いたい。

じっとしてれば傷つくこともないし、周りを気にして疲れることもない。ちなみにここで言う「どこかへ行こうとする」っていうのは「能力を上げたい」「結果を出したい」「目標を達成したい」「人から認められたい」みたいな話で、「じっとしている」というのは「ただ目の前にある自分に出来ること、やりたいことだけをやる」みたいな話ということね。

僕自身、会社を辞めるまではとにかく色んなところに全力疾走したり周りを観察しながら歩いたりしてみたんだけど、そういうことっていくらやってもいつまでたっても満足しないしむしろ虚しいし、なんだこれ?って思うことの連続で。だからもう動くのも疲れ果てたからじっとしてることにしようと思ったんだけど、そうしてみるとその状態が案外自分にしっくりきてるっていうことに気付いたんだよね。その辺の詳しい経緯は寄付のお礼レポートに書かれてるので、興味有るかたはぜひ読んでみてください。なんかこの宣伝文句ちょいちょいでてくるな?

というわけで、なんだ。もう疲れたって人はゆっくりしたらいいよ。別に立ち止まっても自分というものが今までと何も変わらないことに気づくし、本当に大切なことって世界のどこかにあるんじゃなくて、ずっと自分の中にあったんだなって思うようになるんじゃないだろうか、って僕は思う。

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category: 人間

コメント

長文失礼します!

おそらくその話題を振ったのは私でしょう。

これは、大学1年生のときに大学の哲学の入門みたいな講義で聞いたものです。

自分の評価というより、存在そのものがどこにあるのかっていう話。

デカルトさんは、自分が思考することだけが唯一無二の絶対的な事実だとしました。

それと同じ次元の考え方で、他人の中に自己が存在しているとした人がいるんです。

正直内容はあまり覚えていないのですが、自分で自分の存在を認識するのには限界がある。だからこそ、他人の中の自己の集合体が自分の存在を認識させるっていう話だったかと思います。

たしかにこの存在の実感が、自己の評価に繋がってくることは間違いないでしょう。

ただ、これは私の考えですが、他人の中に自分自身を含めて考えてもいいと思うんです。

生きるってことを深く考えようとすると、自分の存在意義、評価にどうしても行き着きます。

その中で、全ての評価をおなじだけの割合で、他人に依存することはないと思います。

ただ、ここまで書いたけれども、ゆとりさんの言うようにとても不毛な気がします。

直感に従ってやりたいようにやる。どうなろうと、それが一番楽しいのかも。

URL | 片山尚亮 #z8Ev11P6
2013/05/22 07:16 | edit

Re: 長文失礼します!

>>片山さん

自分の生き方が良いのか悪いのかについて悩むのは不毛なんだな、って本心から気付くためにみんな自分なりにジタバタしているのかもしれないですね。僕は少なくともそういう感じで生きてきたので、あるがままが一番だなぁって心底思います。

URL | ゆとりさとる #-
2013/05/22 11:47 | edit

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