ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

スポンサーサイト  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

cm: --

人は自分の信じる世界で生きている  

自分の世界


「世界ってホントに一つなんだろうか」ということを考えることがあるんだけど、今の僕は「世界は人の数だけあるんだろうな」って思ってる。だって僕らは「自分」っていうフィルターを通して見た世界しかわからないし、自分が想像してること、信じてること以外のことが起きても「そんなのありえない」って思ってすぐに忘れちゃうんだよね。

それを裏付ける一つの事例として、今の物理学では触れちゃいけないと言われてる「クオリア」っていうのがある。
Wikipedia「クオリア」
クオリアという現象を簡単に説明すると、「今ここに赤いリンゴがあるけれど、僕とあなたがこのリンゴの赤さを見て感じることは違うもののはずだ」ということ。



「はぁ??誰がどう見ても同じりんごだろ」と思うのが普通なんだけど、でもじゃあ「りんごってなんですか?このりんごの赤さってなんなんですか?」って聞かれて、万人が完全に納得できる説明って実はすごく難しい。というか出来ないんだよね。

まず、色を説明することが出来ない。「赤い」ってなんなのか、客観的に説明出来る人がいたら多分ノーベル賞もらえると思う。もちろん物理学には「約700nmの波長の長さの光が目に入って、神経を通って電気信号として脳へ伝わる」ということなんだけど、そんなの聞いても「赤い」ってことがどういうことかなんて全然わからない。「血の色」とか「日本の国旗の円の部分」とか、同じような色のものを列挙することはできるけれど、「赤い」ってことがどういうことなのかはやっぱりわからない。

ちょっと怖い話だけど、実は僕が思ってる「赤」とあなたが思ってる「赤」って違うものである可能性があるわけ。それはもちろん確かめようはないけど、「すべての人が等しく同じ感覚を共有してる」っていうことも同じくらい証明出来ないことなわけ。もしかすると僕の中では「緑」と思ってる感覚の色を、あなたは「赤」だと認識してるかもしれない。好みの色って人それぞれだけど、それは色の呼び方が違うだけで、実は頭の中でイメージしてる「好みの色」は人類みんな一緒なのかもしれない…なんて考えたりするとSFを書くときのいいネタになると思う。

この、客観的には決して説明できない、脳で何が起こってるのかも一切の謎とされている「確かにこういう感覚がある」という現象を総称して、「クオリア(感覚質)」って呼んでるんだよね。Wikipediaのクオリアに関する思考実験の項目はどれもとても面白いのでオススメです。

クオリアは今の物理学じゃ立証できないとされているけれど、でも僕らはいつも色を視ているし、痛みや匂いを感じてる。それはつまり「自分の体」っていう器官を通じて、頭の中に「世界を感じている」って言えるわけ。
だから「僕が見てる世界」「僕が世界だと思っているもの」と「あなたが見てる世界」「あなたが世界だと思っているもの」は、全く異なる世界であることを誰も否定はできないということ。

でもまぁこの話はあくまで「自分の体」を通しての世界の違いだから、多少色の感覚が違おうが匂いの感じ方が違おうが、別に普段の生活やコミュニケーションに問題はないよね。ここまでの話で終わるんなら、僕も別にわざわざブログに書いてない。大切なのはここからで、実は感覚だけじゃなくて考え方や価値観、意識ですらも「自分」というフィルターによって人とは異なる世界に見えるようになってるっていうこと。

前の「悩みとどうやって付き合っていくか」という記事で、目の前にコンクリが降ってきた時の感じ方の違いについて書いたよね。

""工事現場の横歩いてたら目の前にでかいコンクリが降ってきたとして、「うぉわぁあああ!!何しやがんだこのボケぇえええええ!!」と思うのか、「あぁ神よ感謝します…もう一歩踏み込んでいたら私は死んでいるところでした」と思うのかは、別に降ってきたコンクリが決めることじゃない。その人がどう感じるかだけだ。""

この例で説明すると、コンクリが降ってきたことに激怒した人は「そんなことが自分に起きるはずがない。もし起きたとしたら、それは確実に相手の責任だ。必ず訴えてやる。」っていう考え方を持っていると考えられるよね。対して神に感謝した人は「自分にはいつ不幸が襲ってきてもおかしくないけれど、神様へのお祈りを毎日しているし、きっと不幸があっても神様が守ってくれる」みたいな考え方を持ってるんだろうな。

「あぁー、考え方が違う2人がいるんだなー」で普通は終わるところだけど、ここではもう一歩突っ込んで「なんで同じ人間なのにこんなに考え方が違うのか」っていう部分を考えてみたい。そして両者は果たして友達になることが出来るんだろうか?

まず、そもそも両者の考え方ってどっから湧いてきたものなんだろう。僕らは何かしらの出来事が目の前で起こった時に、必ずその出来事に対して感情を抱くよね。ムカつくとか感謝したいとか面白いとか悲しいとか。良いこととか悪いこととか。何にも感じませんってのは、それは見慣れてるからそう思うだけであって、その出来事を最初に体験した時は必ず何かを感じていたはずだよね。

それはいわゆる「意識」とか「価値観」とか「考え方」、「反応」みたいに言われるけど、でもそれって何もないところからいきなり降ってくるわけじゃないよね?その人の経験とか能力とか才能とか感性によって、その人のそれまでの人生の蓄積によって、総合的に判断されてるわけだよね。

でもじゃあ考え方・感じ方って不変なのかというと、不思議なことにそんなことは全くないよね。むしろそれって毎日ぐるぐる変わっていってるもののような気がする。「自分が変わると世界が違って見えてくる」みたいな言葉があるけど、それは全くもってその通りだと思う。今の僕が感じる世界と、会社を辞めてすぐの僕が感じてた世界は明らかに違う。

その違いってなんなんだろうか。どこでそれが決まるんだろうか。何が「フィルター」になってるんだろうか。同じ出来事が起こってもイライラする人と嬉しいと感じる人がいて、嬉しいと感じれる方が人生楽しいってわかってるのに、なんでイライラしてしまうんだろうか。ということを僕は考えていて、最近整理がついてきた。
それは、「信じてるものが違うんだ」っていうこと。人の意識・価値観・考え方・反応は全て、その人が「信じているもの」というフィルターによって脳内変換されて、感覚として僕らは実感することが出来る。

例えば、「子どもが生まれたら幸せだろうなぁ~」って思ってる人は、「子どもが生まれて幸せな自分」を信じてる。実際には育児ノイローゼになって子どもを殺してしまうような人だっているわけだから、必ずしも子どもが生まれることが絶対の幸せとは言えないところがあると思うんだけど、でも「子どもが生まれて幸せな自分を信じてる人」にはそんな言葉は絶対に届かない。目隠ししている人にいくら「目の前に虹が出てるよ」と言っても理解してもらえないように、「その人が信じていること以外の言葉は、いくら正しいことを言ってもその人には届かない」ということが起こってるんだよね。

これは自分で思っている以上に強烈なフィルターなので、自覚できないものだと思う。人と人がいつまで経っても分かり合えない、どんな時代でも必ず争いが起きる原因はここにあると僕は思う。考え方が違うんじゃない。「信じてるもの」が違うんだ。ということなんじゃないだろうか。

で、何を言いたいかというと「みなさんは何を信じて生きているのか?」ということね。家族なのか、恋人なのか、仕事なのか、お金なのか、友情なのか、愛なのか、情熱なのか、努力なのか、結果なのか、過程なのか。それが何であれ、僕らは自分が信じている世界にしか生きることが出来ないし、自分が信じているもの以外は見えたとしてもすぐに目を逸らして忘れようとする。結果的に、それは無かったことになる。そのことが別に良いとか悪いとかじゃなくて、僕らはそういう生き物なんだっていうことね。

僕は今までの人生を振り返って、自分が信じていたものにいつも裏切られて、その度に絶望感を覚えて生きてきたけれど、今僕が信じてるものは多分僕を裏切らないんじゃないか?と思って、それを信じて生活してる。それは何かというと「困っている人を助けたい」と思う心、「自分の良心」なんだよね。会社を辞めてもう死んでもいいと思っていた僕がどうして元気になれたかというと、自分の良心だけは自分を裏切らないって心から思えたからなんだと思う。

人は自分の信じているものによってしか考えられないし、感じられないし、認められないし、生きられない。「信じてる何か」というフィルターを通して、自分が生きたい世界、自分だけの世界を生きてるんだと思う。だからいくら正論を言われても、簡単にうなずけない自分がいるんだろうな。それは自分が信じているものじゃないから、受け入れるわけにはいかないんだと思う。

もし「今とてつもなく不安だ」とか、「悩んでいてずっと苦しい」という人がいるとしたら、それはきっと「自分が信じていることと違うことが目の前で起きているから」なんだと思う。目の前の不安や苦しみを取り除けないなら、まずはそれを排除するために頑張らないといけないんだろうけど、足掻いても抵抗してもどうにもならないなら、それはきっと自分が信じていたものがマヤカシだったんだろうなって気付いて、自分を元気づけてくれる「別の信念」を持たなくちゃいけないんだと思う。



関連記事

category: 人間

コメント

共感

はじめまして。
全てのブログ記事が、あまりにも私の考えていることとあまりにも合致していたのでコメントさせていただきました。

私もゆとりさとるさんと同じく23歳。
ゆとり世代です。
いくつかの記事に書かれている通り、僕らの世代のほとんどは金銭欲だったり物欲に非常に乏しいです。
けれども一方で、それ以外の方法で積極的に充足感を得ようという人にはなかなか出会えません。

一言で言えば無気力。

社会という長いものにただ巻かれ、不満を募らせるものの、その原因を考察しないでただ黙っている。
限界を迎えれば、自殺。

これはかなり偏った見方ではありますが、方向性としては間違ってないと考えています。

世代の移り変わりで、理想の生き方や欲の形が変わるのなら、それを享受するように行動しなければいけないと思うんです。

ゆとりさとるさんは、現在ブログ等を用いて情報発信されています。

私も今の在り方に異を唱えて、自分の周りから一歩ずつ幸せな生き方をするための、共同体を創ろうとしています。

気持ちだけが先行した、稚拙な長い乱文を失礼致しました。

記事を読んで元気にさせていただきました。
応援しています。

18日の関東集まる会には、なんとか参加させていただきたいと思います。

URL | 片山 尚亮 #z8Ev11P6
2013/05/13 07:26 | edit

ただただ上記コメントと同感

18日たのしみにしてます。
いけたらいいなぁ

URL | おとうふ #-
2013/05/13 13:35 | edit

Re: 共感

>>片山 尚亮さん

はじめまして、コメントありがとうございます。ブログ読んでいただけて嬉しい限りです。
そうですね、僕らの世代は優しいけれど覇気がない、無欲なのはいいけれど変えようという意思は乏しい世代です。

ただ、僕や片山さんのようにその原因と自分の本心を見つめて、それに従って最良と思われる行動を取ろうということがなかなか出来ないんじゃないかと思います。変えたいけど、どうしたらいいかわからない。何が正しいのかがわからない。そういう人がほとんどなんじゃないでしょうか。
けれどそれは考えれば必ずわかることですし、僕の役目はその後押しをすることかなと思っています。結果として時代が移り変わるための立役者になれればという思いです。

応援ありがとうございます!アドレスを記載していただいているので、案内メールだけ送らせて頂きますね。

URL | ゆとりさとる #-
2013/05/13 13:39 | edit

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

 |  #
2014/08/08 16:00 | edit

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://hjkd8yg.blog.fc2.com/tb.php/194-aff72162
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。