ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

【決定版】ゆとりさとるの仕事論  

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ゆとりさとるシリーズ!第何弾かは覚えてないけど、今回は僕が思う「働くって何だ?」について語ろうと思う。僕もようやくこの記事をかけるまでになった。会社を辞めたころは人が生きるとは何なのか、働くって何なのか、全くわかっていなかった。ただただ今の自分の状況に強烈な違和感があっただけで、その正体はわかっていなかった。

けど、やっと今の僕なりの仕事観を打ち出せるくらいになったんだなぁ…。ブログを始めて約一年経って、ようやく一つの目標をクリアしたって言えるかもしれない。

※注意 1万字近くあります…。一気に読めるとは思いますが、暇な時に読んでください。


労働って人生においてとても大きな位置を占めてるので、仕事が楽しく気持ちよく清々しいものであれば、正直人生ってもののかなりの部分が解決したと言えるんじゃないだろうか。そう言いたくなるくらい「仕事とは?」ってみんなが考えるべき問題なんだと思う。

さて、僕の価値観の出発点は常に「人生何やってもいい」ということ。人生には本来、何の足かせも壁もハードルもない。あると思っているのはただ自分がそう思い込んでしまっているだけなんだよね。で、何やってもいいんだけど、人は何故か「毎日楽しく穏やかで、生き生きと過ごしたい」ということを常に思ってしまうものなんだよなぁ。なぜそう思ってしまうのかは今回のテーマじゃないのでスルーね。

で、日々を楽しく幸せに充実して生きるってのを目指したその瞬間、世界の人口の数だけアプローチの方法が生まれる。人それぞれってことだな。そこに至る道筋は誰とも重なることはないし、みんなが一人一人自分なりに模索していくものなんだと思う。

ただ、ここで大多数の人が考える手段として「仕事」ってのが出てくる。別に世間一般で言われるような「仕事」をしなくても人生楽しく過ごす方法はあるんだろけど、多くの人にとっては仕事をして、お金を稼ぐことが「幸せな人生」につながる手段なんだって思うものなので、ここでようやく「じゃあどのように仕事をするか」って話になってくる。

前置きが長くなったけど、ここからが仕事論です。なぜこんな前置きを書いたかというと、「仕事をする理由は何なのか」というのをハッキリさせておく必要があるから。つまり「日々を楽しく幸せに充実して生きる」っていうことね。「これを達成するために仕事をするんだ」っていうことが、どこまで行っても大切な最初の一歩になる。

では、「日々を楽しく幸せに充実して生きる」ためにする仕事について、具体的にどんな手段が考えられるかを以下どんどん列挙していきます。

①世間の言うこと、親の言うこと、他者の価値観に従うことで「充実する」

仕事に限らずだけど、とりあえずこれが人として社会に生きることの出発点だと思う。自分勝手に生きたって単なるひとりよがりになって、誰にも相手にされなくなるし。誰にも相手にされないと孤独だし協力も受けられないから、まずは周りの信頼を獲得するためにこれを実行していくことになる。

ただしこの考え方の欠点は「そこに自分というものがない」ということ。自分の意思や願望は無くて、常に誰かのため、組織のために働き続けることになる。毎日が同じ事の繰り返しどころか、毎日の仕事は自分にとって何の意味もなさない。ただ生きるために、周囲の人たちと衝突しないように働くということになる。

これは割りとすぐに「これだけじゃ充実しない」って気付くようになる。自分には意思があり、自我があるんだから、やっぱり自分のために働かないといけないんだ、って思うようになる。そこで次の手段に移る。

②自分の中にある欲望を叶えることで「充実する」

欲望っていうのは食欲とか睡眠欲とか物欲とか金銭欲とか、そういうものね。つまり仕事をする意味はこの「自分の欲望を満たす」ためにあるんだ、ということ。大多数の人がこの①と②の合わせ技で毎日を送っているのかもしれない。仕事をしている時はひたすら無難にやり過ごして、給料をしっかり頂いたらそれを使って自分の欲望を満たす。まぁ普通っちゃ普通だなぁ。僕もこのスタイルで満足できれば良かったんだけど、残念ながらこれもすぐに壁にぶち当たることになる。

なぜなら、「欲望はいつまで経っても満たされることはない」から。その日はとりあえずお腹いっぱいご飯を食べたとしても、もう次の日にはそんなこと無かったかのようにお腹が空いてしまう。睡眠にしてもモノにしてもお金にしても、これだけ手に入れば満足っていうラインは実はあるようで無いんだよね。有れば有るでそのことについて悩んだり、もっと欲しくなってくる。欲望ってそういうものなんだと思う。

しかもさらに重要な問題が残っていて、この段階では相変わらず「仕事において自分の意思がない」んだよね。仮に仕事以外のプライベートは自分の欲望を満たしまくって充実できたとしても(無理だけど)、やっぱり毎日降り掛かってくる「仕事」の重圧からは逃れられない。他人のためや世間のために、指示されることを必死にこなしていく日々。これじゃとても「毎日楽しく穏やか」ではいられない。このブログの読者の方の多くがぶち当たってる壁でもあると思う。というわけでこれを解決しようとして次の段階へ移行する。

③自分の目標、やりたいこと、夢を掲げることで「充実する」

ただやらされるだけの仕事に「楽しくて生き生きした日々」はない。そのことを痛感するようになると、今度は「いかにして仕事を充実したものにするか」ということが問題になってくる。そしてその手段として「仕事の中に目標ややりがいを見出してやろう」と思うようになるんだよね。

これは例えばサラリーマンであれば「売上はいくらで、契約は○本取ってやろう!」みたいな話になる。まぁ言ってみればゲーム感覚なんだろうな。ただ紙を折るだけの作業にしても、だらだらとやるよりは時間を測って競争したほうが充実したりするしね。

それ以外にも、例えば夢を掲げて起業するとかってのもこの部類に入るよね。「こんな商品を作ったらきっと売れる!誰もやってないから起業してやろう!」とか、「独立して自由な生活を手に入れよう!」とか。あるいはプロ野球選手みたいに小さい頃の夢を叶える生き方もこれに含まれると思う。

このレベルになると「たとえ生きるために必要なお金があったとしても続けたい」と思うくらいの人も出てくるようになる。すごいよね。確かに②みたいな自分の欲望はいつまで経っても満たされることはないから、こうして仕事の中に自分なりの価値観を打ち立てて、それを達成することがイコール人生の充実だということなんだろうな。

サラリーマンの売上目標みたいな話なら比較的誰でもできることだけれど、起業とか独立とかってなるとこれはもう憧れの的だよね。大金持ちになってもなお、自分の目標に向かって生きてる人なんかはこの世の中で一番充実してるんだろうなぁ~!って思うだろうし。
ちなみに僕も半年くらい前まではそう思っていた。そういう生き方をしている人が一番充実していて、人生を謳歌してる人だと思っていた。けれど残念ながらこれも「毎日楽しく穏やかで、生き生きとした生活」には成り得ないことに気付くことになる。

なぜなら、どんなに取り繕っても、テレビに出るくらい素晴らしいものであったとしても、これは②の延長線上にあるものに過ぎないから。つまり、夢や目標、やりがいっていうのはただ形を変えた自分の中の欲に過ぎないということ。食欲と同じように達成すればその瞬間、淡雪のように消えてしまうし、達成できない間はいつまでも満たされない思いを抱えて日々を送ることになる。僕はこの事実に気付けたことが、僕の人生の中での一番の功績と言っていいかもしれない。

僕はこれまで散々「やりたいことをやるべきだ」って言ってきた。それは今でも間違ってないと思う。結局人は自分がやりたいことしかできないし、やりたくないことは続かない生き物だと思う。けど、夢や目標、やりがいが一番大切だって言うのは実は間違いだったんだなってハッキリわかった。

確かに目標があると生き生きできる気はする。キビキビと動いて、目標達成のために毎日真剣に、全力で生きることができるよね。でもそれは結局のところ「自分で自分を追い込んで、怠けないように鞭を打ってる」ような状態に過ぎないんじゃないのかなぁって思う。

「自分は必ずこれを成し遂げるんだ」っていうのは強い意思が感じられるけど、でもじゃあその先に一体何があるんだろうか?金メダルを取った選手は、必ずいつか他の人に負けてその地位を降りることになる。そんな自分はもう過去の話になる。それまで金メダルを取ることだけを目標に生きてきた自分に、その人はどうやって自分にとっての生きる意味を見出すことができるんだろうか。

この問題を解決することは、この③のままでは出来ない。生きがいはその瞬間だけのもので、終わればそこで終わり。もちろん死ぬまでやり続ければいいっていう考え方もあるけれど、果たしてほんとにそれで満足できるんだろうか。お金であれ名誉であれ、その時々の自分の目標を見つけては達成して終わり、また見つけては達成して終わり。ひたすらその繰り返し。その本質は②と変わらない。このどうしようもない事実に絶望感を感じた人は、次の段階に移ることになる。

④世のため人のため、自分の命の限りを尽くすことで「充実する」

「自分」とは何なのか?ってすごい大きいテーマだけど、「仕事」においては自分という存在ほど虚しいものはない。人の指図に従うのは下らないし、嫌だ。かといって自分の目標を打ち立てたとしても、達成すればそこで終わり。生きがいなんて、やりたいだけやったら飽きちゃうものなんだよね。そんなの本当の充実じゃない。偽物だ。それで本当に「毎日楽しく穏やかで、生き生きと過ごす」ことなんて出来ない。

そこで④となる。「そうか、自分なんて有って無いようなものなんだ。自分のためだけを考えて生きるのは、本当の充実じゃない。だったら、自分が生きてる社会のため、国のため、世界のため。あるいは自分を支えてくれた家族のため、友人のため、地域の人たちのために働くことこそが、いつまで経っても変わらない本当の充実なんだ。」

前回の記事のコメント欄で、本当の意味での働くとはこの④のことではないか、と言ってくれた方がいました。とても良い話だったので、ここで引用させていただきます。

投稿者:鞠さん

ここのサイトで印象に残っている記事があります。夏目漱石の自己本位について書かれた記事です。他人本位とは他人の敷く道を歩くようなものです。一方自己本位とは周りに左右されず、自己の価値観に則って生きることであると承知しております。まあこれが難しいわけですが。

夏目漱石の晩年の思想にはもう一つ「即天去私」というものがあります。
わざわざ説明するのは釈迦に説法で恥ずかしいのですが、皆さんにもわかりやすいように話します。実は私たちが抱いている会社を辞めたいという気持ちだとか社会の価値観との相違だとかいうのは明治時代から非常に大きな問題として捉えられてきました。それまで士農工商で自分の役割をきっちりと決められていた(しかも世襲制で完全固定化)時代から西洋の文化が入って四民平等になりました。

しかしこれはあくまで西洋の文化であって、日本人にピタリと当てはまるものではなかったのです。例えば武士は主君に仕え、主君の前で討ち死にすることを生の最高の充実としていたのです。家を守るというひとつの価値観のために死んでいったんです。だから燃えるように生きることができたんです。しかし四民平等で我々は空に放り出されてしまった。何のために生きることもできない苦しみが明治から始まったんですね。これが夏目漱石や森鴎外が苦しんだ「近代的自我」というものなんです。

で、夏目漱石が至った「即天去私」とは無私のことなんです。近代的自我の苦しみを文学で克服すること、すなわちどのような日本人になるべきなのかを書こうとした。これは自分のためではなく我々日本人のために漱石が立てた無私の目標、使命だったんです。漱石は武士のように文学をやっていきたいと語っています。これは明治以前の日本人への回帰だと思うのです。つまり武士のように自分以外のものに価値観を抱くことで燃えるように生きられると気づいたんです。三島由紀夫なんかをよく知ると同じことを考えていたことがわかります(よく誤解されてますけど)。2人とも人のために死すこと、それが生の充実だと言っているんです。偉人にも多いです。チェゲバラは他国の人たちのために死んだ。カストロから名誉ある小さいを約束されたにも関わらず幾度も戦場に赴いて人々のために戦って散った。だからカストロと違って英雄なんですよね。

私が思うに自分のために生きるのって充実とは違うんですよ。虚無感がついて回る。で、武士の時代より今の方が幸せってみんな思ってますが、本当にそうでしょうか。自分の外に価値観をはっきりと置けない時代こそ不幸だとも思います。筋の通ってないフニャフニャの人生になってしまう。やりたいことってそういうことなんじゃないかと思うんですよ。やるなら筋を通す、なんかヤクザみたいですけど、そういう仕事こそ周りの人も応援すると思うし、自分の人生も充実する。

明治から連綿と続く近現代自我の苦しみの答えとして、他人のために死すという生き方を考えなくてはいけないのかなと思います。
とくにこの現在においては、、、誰も命をかけて仕事をしてない。
働くことって本来は燃えるように生きることなんだと思います。漱石は早くそれを見つけろと言っている。そのためには社会の常識や価値観と逆行してでも見つけなければならない。


このコメントを読んだ時、素直にすごいと思った。特に「私が思うに自分のために生きるのって充実とは違うんですよ。虚無感がついて回る。」という部分。全くその通りだし、この方はきっと③の領域を超えて、④の価値観を本当の充実と理解して、生きようとしているんだなってわかった。自分よりも大切なもの、自分の命をかけてでも守りたいと思うもの、あるいは信念。そのために生きるのだと。主君のために命を散らした武士の生き方はそうだし、夏目漱石は文学を通して、国や人のために生きたんだろうなぁ。

それは言ってみれば、「自分の死に場所を見つける」ということなんだと思う。ここでなら、この人のためなら、この思いのためなら、自分を捧げてもいい。それはいつも自分の心の支えで、自分にとっての充実になってる。そのために死ねるならこんなに嬉しいことはない。むしろ本望だ。ここに自分の生きる意味があったんだ。

もし本当にそう思って生きられれば、確かに毎日が充実しているかもしれない。そしてそれが正しいとなると、鞠さんが言うように「自分の外に価値観をはっきりと置けない時代こそ不幸」なんだろうな。僕もこの考えに至った時は、この豊かな時代に失望したこともある。不謹慎だけど、戦争で死んだ人達というのはある意味幸福だったんじゃないか?とすら思った。だって国のため、守りたい家族のために、自分の命を投げ打つことが出来たんだから。本当に愛してるものがあるなら、そのために命をかけるってのは割りと簡単な話だと思う。

けれど。僕はこの価値観でさえもはっきりと否定できると思っている。同時に、僕の中で「働くとは何なのか?」ということに対する答えを出せるようになった。

まずは、④の価値観の限界について。
限界、と書いたのでわかるかもしれないけれど、「世の中には不変なものなんてないんだ」ということ。諸行無常なんて言ったりもするけど、ほんとにその通りなんだよね。「自分が命をかけてでも守りたいと思うもの」は、「常に変化していて、いつか必ず自分の思い通りでないものになる」。言葉は悪いけれど、いつか必ず自分の思いを裏切ることになってしまうんだよね。

運良くずっと何十年も不変で有ってくれたとして、それでもさらに恐ろしい問題が待ち構えている。それは「本当に守りたいものがあるなら、死んでも死にきれない」という最大の矛盾なんだよね。自分の大切なものを守るために死ななければいけないという状況になって、自分の命をかけるところまではまぁ簡単なのかもしれない。やったことないから知らんけどさ。
でも、自分が死んでしまったらその後はどうなるんだろうか?そりゃ自分という意識は無くなるし、もうこの世には居なくなるから関係ないっちゃ関係ないかもしれないけど、それで果たして「安らかに死ぬ」ことが出来るんだろうか。

さっきコメントでも出て来た「夏目漱石」だけど。彼はこの④の価値観に忠実に生きて、見事に自分が成し遂げたいことと守りたいものを両立させて、毎日を生き生きと過ごしていたに違いない。けれど、彼の臨終の様子を知ると、本当にこの生き方が正しいのだろうかって思えてならない。

漱石はいよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ああ、苦しい。今死んでは困る」「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

彼が打ち出した「則天去私」の価値観とは程遠い、なんとも言えない死に方だなぁと思う。これが本当に人生の充実なんだろうか。いや確かに生きてる間は充実してたのかもしれないけど、最期の最期でこうなってしまうって、どうなんだろう。この世の中には、安らかに眠るように死んでいく人もいる。そんな人たちと漱石の違いはなんだったんだろう…。って僕は考えざるをえない。

もういい加減長いから単刀直入に言うけど、④の価値観は実は、人間が普遍的に持ってる「所有欲」を昇華した形に過ぎないと僕は思っている。そもそも「世のため人のため」とか言うけど、そんなこと本当に出来るのか?って僕はずっと疑問だった。本当に純粋にその人のことだけを考えて行動することなんて出来るんだろうか。

ぶっちゃけ出来ないと思う。「誰かを守りたいのは、それはそういうことをしてる自分が好きだからか、あるいは傷ついたその誰かを『自分が見たくないから』だ」と思う。自分が見てないところでなら、気付かない範囲でなら、何がどうなっても構わないのが人間の本質なんじゃないのか。これは良い悪いじゃなくて、どう取り繕ってもそれが人間の限界なんだよね。

じゃあどうするのか?人の言いなりでもなく、自分の欲望のためでもなく、自分の夢や目標のためでもなく、他者のためでもなく。それ以外に一体何をどうすることが出来ると言うのか?全てに絶望した僕が最期に辿り着いたのが、⑤の境地だった。なんかもう話が大きくなりすぎて仕事がどうのこうのじゃなくなってる気がするけど、あくまで仕事の話です。

⑤自分の良心に従って生きることで「充実する」

自分のために生きても虚しい。限界がある。けれど他者は自分の思い通りには決してならないし、人間は自分のため以外に生きることなんて出来ない。なんだよそれ詰んでるじゃねぇかって思うかもしれないけど、それでもなお、最期に残った希望のような「原動力」がある。ちなみにこの「原動力」が否定されたら、多分僕はまたずっと家に引きもって、息してるだけでしんどい毎日を送ることになるんだと思う。

それが「困ってる人を助けたいと思う心」「決して消えることのない良心」なんだと思う。思えば不思議なんだよね。人間って欲望のかたまりだし、他人のことを完全に理解することなんて決して出来ない。けれど、自分が損をすることも厭わずに、人はだれかのために動くことができる。本当に不思議な力だなぁって思う。

「あ、切れてやがる。ライター貸してくんね?」「ん。ほらよ」っていう、そんな何気ないやりとりに僕らはなんだかすごく心が安心して、穏やかな気持ちになることが出来る。なんかわかんないけど僕はこの「良心」っていうのが、人間の持つ一番穏やかで楽しくて幸せで毎日が生き生きとできる力なんじゃないかなぁって思う。

ライターを貸すのは、一体なんのためなんだろうか?普通に考えれば使われた分だけ自分が損することになるよね。でも、それでもまぁいいやって思える。それは相手のためなんだろうか?断ったら人間関係が悪くなるからだろうか?そういうこともあるんだろうけど、こうすることで「自分が生き生きできる」「自分の生きてる意味が出てくる」もっと言うと、「自分がここにいることを許されてる」と思えるからなんじゃないかって僕は思う。ライターひとつでおおげさかもしれないけどさ、そういうことの積み重ねのような気がするんだよなぁ。

だから、言ってみればそれは「自分のため」なんだと思う。自分が元気に生きていくため。そしてそれは同時に「やりたいこと」になってるんだと思う。けどその「やりたいこと」は決して一人では出来ないことだよね。求めてくる相手がいて、与えることができる自分がいて初めて「自分が生きるため」にそれをすることが出来る。

僕は「人は一人では生きていけない」っていう言葉に何か違和感があった。必要な食料と環境と、趣味や生きがいがあれば別に生きていけるだろ…と思っていた。けどそうじゃないんだな。自分を必要としてくれる誰かがいて初めて自分は生きることを許されるというか、生きる原動力を手に入れることが出来るんだ。その時初めて、「人としての穏やかな、幸せな毎日」が手に入るんだなぁってことがわかった。

ここから結論。仕事とは良心で行うものだと僕は思う。そうでない仕事には、何かしらのわだかまりが必ず生まれることになる。すべての利害を超えて損得を超えて、ただ自分が穏やかに生きることを心から願うのなら、自分の中にある良心にのみ従って動けばいいんだ。自分に出来ることは必ずあって、それを必要としてくれる人は必ずいて、その人が幸せになることを思って自分が動く。これがあらゆる動機に勝る、一番強力で不変の幸せな働き方だと思う。

まぁ良心に従って行動するのが一番いいってのは、ここまで大げさに語らなくても実はみんな心の奥底では理解してることなんだよね。問題はそれがなかなか出来ない今の世の中なんだよなぁ…。あぁーあー。このことに気付いてからは、人間ってほんと自分で自分の首を締めてるよなって思う。譲り合いや助け合いがどれだけ人の幸福につながっているか、お金では決して換算できないとてつもなく大きな価値があることを、もっと自覚しなくちゃいけないんだと思う。

ただ、ここで書いてる「仕事論」はあくまで僕が感じた範囲の話であって、万人に当てはまるものじゃない。なぜなら、「衣食足りて礼節を知る」っていう言葉があるように、僕が良心だけでこうしてブログを通した活動が出来るのは、「衣食が足りてる」からなんだよね。それは単に衣食住だけの話じゃなくて、僕はお金にも名誉にも興味はなくて、言ってみれば③や④も足りてるっていうことになるんだと思う。足りてるというか、それじゃ本当の意味で満たされないことを知って愕然とした、という感じだけど。ちなみにその辺りの具体的なエピソードは寄付のお礼として配ってる「ゆとりさとるのこれまで」に、当時の感情もありありと描写しながら書かれてますので、興味ある方はぜひ。

というわけで、⑤の話が「はぁ~?理想論すぎてうぜぇ。そんなことより仕事だるい。宝くじ当たんねぇかな」という人は、①~④の中で何かが満たされてない、欠けてる状態にいるはずなので、まずは全力でそれを補っていく必要があるんだと思う。で、お腹いっぱいになったら⑤ってのもなかなか良いもんなんだなーって思ってもらえるような気がする。

以上です。いかがだったでしょうか、ゆとりさとるの仕事論。「こうしたら仕事が上手くいく!」「これが賢い世渡りの仕方だ!」みたいな内容じゃないことは予想ついてたと思いますが、いい意味で予想を裏切る内容になっていればいいなと思います。

あと、仕事以外の時間は僕は相変わらずダラダラしてます。最近また昼夜逆転してきたし、昼間から酒飲んだりしてるし。けどやっぱそれだけじゃ日々穏やかに生きていけないことがわかって、今はこうしてブログを書いて、誰かの不安や悩みが解消されればなぁって思って生きてます。生かされてる、とも言えるかもしれない。自分に出来ることがあって良かった。やりたいことがあって良かった。それで助かってくれる誰かがいて良かった。そんな感じです。僕はこれからも「自分のために」ブログを書いて、活動をやっていくつもりです。

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category: 人間

コメント

感謝

先日は無礼なコメントをしたにも関わらず、真摯なお返事をしていただき感謝いたします。ゆとりさとるさんの公明正大な態度にも感服いたしました。
返事のコメントが遅れていることをお許しください。私も今は仕事をしている身なので後日また今回の記事についてもコメントするつもりです。
漱石や快不快の話、良心についても思うところを、また無礼な内容になるかもしれませんが、書こうと思います。
まだざっと読んだだけですが、、、
よろしくお願いします。

全くの余談ですが、ゆとりさとるさんとは同い年か1つ違いかもしれません。

URL | 鞠 #-
2013/05/11 01:17 | edit

Re: 感謝

>>鞠さん

いえ、全然無礼じゃないです。むしろどんどん意見を言っていただけると僕もありがたいです。またコメントを書いてももらえるのをお待ちしてます。

記事について補足ですが、「仕事を行う上で大切なのは良心」と書きましたが、正確に言うと「良心に従って動くことで結果的に①~④も手に入ることになる」ということですね。愛する子どものために働きたいと思うのは良心でありながらも、④のような「他者のための生き方」を結果的にやっていることになります。

年が近いんですか!それは嬉しい限りです。僕らのような年代の人間がこういうことをもっと大真面目に話し合うべきなんじゃないかなぁって思うんですよね。

URL | ゆとりさとる #-
2013/05/11 06:01 | edit

ご無沙汰です

お久しぶりです。
コメントすると言ってなかなかできなかったのですが、今記事を読み直していました。
④と⑤は複合している部分もかなりあると思うんですよ。補足に書いていただいたように私の言いたいことが⑤にも入っています。
私はずっと良心という言葉のかわりに人間の愛というもので考えていました。
人間の最高の愛の状態とはどういうものかなと考えていくと、これは無意識的かつ反射的なものだということだと思うんですね。私が幼い頃に衝撃を受けたニュースがあって、それはベビーカーを押した母親に車が突っ込んできて死亡したというものでした。で、目撃者の証言では車と衝突する寸前に母親がベビーカーを突き放して赤ちゃんは助かったというんです。戦時中も母親の死体の下から傷一つない赤ん坊が出てきたとか(まあ残念ながら死んでいたんだけど)。ここにはおそらく快不快の観念は存在しなくて、無意識的、反射的に行動しただけなんだと思います。人のためと私が言うのは、この境地のことであって、自分の所有欲ではないんですね。⑤の良心とも繋がってると思います。
で、漱石が言った則天去私もこれであると。
漱石の死に方ですが、漱石の絶筆となった「明暗」という作品は人間の我執と則天去私の思想を対比したものです。文字通り死ぬまで書き続けました。無意識的に反射的に。「今死んでは困る」の意は「明暗」を書き終えなきゃいけない、ということですね。臨終は安らかではなかったと思いますよ。でも死に様って死ぬ瞬間のことではないですから。
それまで積み上げたもの、死ぬまで走り続けたことだと思います。
ヘラヘラして生きたって安らかに死ぬことはできますし。誰も愛さなければ死さえ容易いものかもしれない。でも人間には愛がある。
僕がこの無意識的、反射的な愛を信じるのは実体験があるからです。私は恥ずかしながら教師というものをやっているのですが、子どもたちと過ごす中で時々この境地に没入してしまうことがあるんですね。そうなり易い職業ではあるかもしれないけど。でもまだ全然命かけてない。宝くじ当たったらさっさと辞めてその日暮らししてしまうレベルです。で、周りのベテラン教師ですらそんな感じでダメな人が多くて。私が今辞めたいのは教師を続けることで、教師としての能力が上がるわけじゃないと気づいたからです。私もそこにいて毒されてしまうんじゃないかという恐怖もあります。

って、話がそれてしまいましたね。
私の考える愛って瞬間なんです。それを死ぬまで持続させることで永遠となる。漱石の死って現代にも影響を与え続けているでしょう。それが永遠っていうことだと思いますよ。残された人たちがいるから死ねないという考えとは真反対なんです。

なんか愛だの永遠だのロマンチストみたいですけど、⑤ともある意味近いと思います。

URL | 鞠 #-
2013/05/19 12:36 | edit

Re: ご無沙汰です

>>鞠さん

お久しぶりです。コメントありがとうございます!
④と⑤は確かに表面的には同じようなことをしているようにみえるのですが、その心がまったく違います。僕ははっきりと、④と⑤は完全に別物であることを改めて主張します。
こういうことをあんまりごちゃごちゃ言うと言葉遊びになってしまうので端的に言いますが、④は一言で言うと愛です。そして愛とは所有欲です。そして⑤は一言で言うと良心であり、そして良心とは慈悲です。僕が使うこの区分けが鞠さんのイメージとは違うものになっているかもしれませんが、ご容赦ください。

では愛と慈悲の違いとは何か、というと、愛は「自分の認める価値観以外は決して認めない」のに対して、慈悲は「あらゆる価値観、生き方をあるがままに許す」ということです。
別の表現をすると、愛は「自分が守るものが傷つくことを恐れる」のに対して、慈悲は「傷つくことや喜ぶこと、その全てが人生において価値あるものであることを知っている」状態であると言えます。

極論のように思われるかもしれませんが、人生は何をやってもいいんです。僕が言う「何でもいい」とは何かというと、本当に何でもです。犯罪や自傷行為も含みます。僕は犯罪をやってはいけないとは思っていません。「やって欲しくない」とは思っています。ここが愛と慈悲の違いなんじゃないかと僕は考えているのです。

身を呈して我が子を守る母親や、漱石の心中が実際にどうであったかというのはわかりませんが、「○○してはいけない」という気持ちがある以上、それは愛であり所有欲であると僕は考えます。なぜなら人生においてしてはいけないことなどないからです。全て学びであり、経験であり、その人の血肉になるのです。もちろん、悪いことをすると必ずそれは自分に返ってくるので、本人が痛い目に合わないように「やって欲しくない」とは思います。しかし最終的に何をするかの決断を下すのは本人です。僕ではありません。痛い目を見て学ぶことがたくさんあることは事実なんです。

URL | ゆとりさとる #-
2013/05/20 05:40 | edit

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