ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

人としての成長について語ろうと思う  

竹の成長


人として成長していくってどういうことなのかなぁっていうのは僕の中でいろんなイメージやモデルがあるんだけど、最近特に強く思う「成長モデル」について書いてみたいと思う。

これは能力が伸びるとか年を取るとか、環境に適応するとかそういう意味での成長では無くて、「人間性の幅が広がっていくこと」についての成長の話ね。



例えば一番わかりやすいところで言うと、小学生の頃と今の僕らでは同じ世界を見ていても全然見え方って違うじゃない。小学校までの通学路なんかを久しぶりに歩いて感じる感覚って、当時とはもう随分違う。背が伸びて物理的に視点が高くなったとかいうこともそうだけど、それ以上になんかわからないけど違うものがある。何がどう違うっていうのは上手く説明できないけれど、何かが変わってる。あの頃は「どの道通って帰ろうかなー」とか、道を這ってる虫を見つけたらつついてみたりとか、石ころが落ちてたら蹴ってみたりとか、そんな事にばっかり興味があった。

これはいろんな場面で言える話で、例えば「お金」に対する見方とか、「仕事」に対する見方とか、「家族・友人」に対する見方とか。自分の経験や能力や価値観の違いですごい勢いでグルグル変化していくよね。むしろ、見え方が変わらないものなんて無いんじゃないだろうか。それを見るために通してる「自分」っていうフィルターが毎日変わっていってるから、見え方もどんどん変わっていく。悪い方にも良い方にも変わっていくよね。

けどそれは変化というより成長なんじゃないかって僕は思う。良い方に変わったらもちろん「自分は成長したな!今までより前向きな考え方が出来るようになったな!」って思って、悪い方に変わったら「自分は変わってしまった…。今までは楽しかったけど、もう楽しめない…。辛い…。」とかって思ってしまうけど、どっちにしろ成長してるんじゃないのかって僕は思う。後ろに戻ってるとは思えない。

まぁ一言で言うと「考え方が変わった」で済む話なんだけど、別に自分で変えようと思ったわけでもないのに、なんで考え方って変わらなくちゃいけないんだろう?っていうこと。それを僕は成長だと思ってるんだけど、モデルとしては「自分が今いる世界を囲んでる塀を、どんどん乗り越えていってる」感覚なんだと思う。

今見えてる世界を囲んでる「壁」を乗り越えて、次の新しい世界が見える瞬間、僕らはとても清々しくて、楽しくて、新鮮で、生きてる意味ってものをとても実感出来るんだと思う。それは言ってみれば「今までは気付かなかったけど見たことのない遊園地が実は外には有った」みたいな感じで、僕らはその未知の遊園地にワクワクせざるを得ない。

けど、その遊園地はやっぱりスペースが限られていて、こんなにたくさんのお店があってアトラクションがあって、最初は「こんなのとても遊び尽くせない!!」と思っていたはずなのに、いつの間にか全部やり尽くしてもう飽きた、暇だ、って思う瞬間が必ず来る。

そうなると今度は一気に苦痛に変わってくる。変わらない日々、退屈な日常。他の人はあんなに楽しそうなのに、自分はもうそんな風には感じられないなぁ…って思ってしまうんだよね。そこでふと遊園地の周りを見渡してみると、そこには「塀」があったことに気付く。遊園地を囲む大きな塀がグルっと一周するように立ち並んでいて、僕らはだんだんと「その塀の外」にある世界がどうなっているのか?ってことばっかり考えるようになってくる。

でも、その塀の外には何があるかはわからない。乗り越えてしまった瞬間真っ逆さまに落ちてしまうかもしれないし、今あるような遊園地みたいなものはもう無いかもしれない。どうしよう…。真っ暗闇の世界だったら嫌だな…。と思いながらも、でも今の遊園地はもう遊び尽くしたし、見てるだけでも苦痛になってる。だったら例え外の世界に遊園地が無かったとしても、飛び出す価値はあるんじゃないのか…?

そう思ってしまったら、後はもう壁を乗り越えることしか見えなくなってくる。だってここに居続けてもしょうがないし、外の世界を見てみたくてたまらない。外が果たしてどうなってるのか、自分の好奇心を満たしたくてたまらない。

そうやって、今見てる世界を囲んでる壁を乗り越えていくんだろうな。飛び出した新しい世界がどんな世界かはわからないけど、どんな世界であれそれは新鮮で、また元の世界に戻ることは決してできなくて、新しい世界を隅々まで感じていくことになるんだと思う。そしてその新しい世界にもまた塀があることに気が付いて、「ある意味それまで自分を守ってくれていた」塀を乗り越えて、新しい世界を覗きに行く。

人間って誰しもこういうことをずっと繰り返してるんじゃないかなぁ…。僕は小学校時代が毎日楽しくしょうがなかったら、あの頃の感覚にどうやったら戻れるんだろう?って考えたことは何度もあったけど、どう考えても無理だった。その頃とは、もう見えてる世界が違いすぎる。自分の好奇心に誘われるようにして塀を乗り越え乗り越えしてきてしまったから、もう後ろを振り返ってもその頃の世界は全く見えないんだよね。

今を楽しもうと思ったら、今見えてるこの世界を遊びつくすしかない。けどそれもいつか必ず飽きる時がきて、それまで自分の友達として一緒に遊んでくれた世界とお別れして、塀を乗り越えて新しい世界に行かざるを得ない。なんでその行為を止められないのかは分からないけど、その歩みを止めてしまうと自分が自分じゃなくなってきてしまう感覚が出てくるんだよね。人間って常に走り続けないと精神的に死んじゃう生き物なんだろうなぁ。

あるいは、自分はこのままでずっと遊んでいたいと思っても、強制的に塀の外に投げ出されることもあるよね。彼氏が浮気してたのがわかった瞬間とかさ。もう見え方が一変してしまう。
これまで大好きだった人やモノが、突然大嫌いになったりする。その逆のことも起こったりする。今までは決して認められなかったものが、いつの間にか許容できるようになってる。その逆も。

それって、今まで自分が居た世界を飛び越えて、その外にある世界に足をつけた瞬間のような気がする。一度そんな風に感じてしまったらもう世界の見え方がガラリと変わるよね。別に世界そのものは今までと同じだったはずなのにね。けどそれは良いことでも悪いことでもなく、成長っていうことなんじゃないだろうか。人として一回り外の世界が見えるようになった。今まで塀が守ってくれていた、視界を遮断してくれていたものが見えるようになって、良くも悪くも世界の見え方が変わってしまった。

このブログを読んでくれている人が見ている世界がどんな世界かは僕には分からないけど、それは全て自分にとっての遊園地みたいなもので、いつかは飽きてまた外の世界に一歩踏み出す時が来るんだろうなぁ…って思う。

もし今自分のやりたいことをやってる人がいて、仕事であれ何であれ「自分がやらなきゃダメだ」って思えるものがあるっていう人は、それは言ってみれば楽しい楽しい遊園地で遊んでるようなものだと思う。いい友だちが見つかって良かったねってことだろうな。まぁいつかは飽きるんだけどさ。でもなるべくなら長い間、その人にとって楽しめる遊園地であって欲しいと思う。

僕にとってはこのブログかなぁ…。来月で一年になるけど、まだまだ遊び足りない、とても楽しい遊園地だなって思う。塀を乗り越えてこの世界に来て良かった。飽きる瞬間は怖いけど、でもその時はまた塀を乗り越えていくだけだな。それは寂しいけれど、でも人間ってそうやって生きていくしか無い気がする。その先にはもっと楽しい遊園地があるはずだーって思ってしまうんだよなぁ。

今回は「世界は何十、何百という塀で囲まれていて、僕らはそれをどんどん乗り越えて行ってる」というモデルの話でした。あー…。こんなこと書いた所で別に現実は何も変わらないんだけどさ。なんで書きたくなったんだろう。この文章を読んで心が軽くなる人がいるとも思えない。よくわからない。

とにかくなんだ、人間のやることなんて「寝て食べて働いて空いた時間に好きなことする」以外のことなんて何も無いんだけど、全く同じ動作に見えても、その人が今どんな世界にいるかでその人の感じ方は変わるということだな。

あと人としての成長を説明する他のモデルとして僕が高校生の頃から暖めている「らせんモデル」ってのもあるんだけど、またいつかそれもブログに書くかもしれない。というか必ず書いてしまうだろうな…。僕は人間ってものがほんとに好きなんだなぁ。考えても考えても飽きないよ。

僕の発表を聞いてくれてありがとうございました。

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category: 人間

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2013/12/21 12:51 | edit

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