ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

僕らはなんで生きてるんだろうシリーズ最終回  

やっと終わりが見えてきた…。と言っても、僕が自力で考えついたのは第五回までです。残念ながら、この回は神道で説明されてる「この世の仕組み」を紹介するに過ぎないわけです。

でもね。僕ははっきり言って宗教は嫌いだ。嫌いというか、とにかく胡散臭いので近寄りたくない意識が強い。そんな怪しいものが一体何をデタラメ言ってるのか、僕が暴いてやろうと思って、気軽にググった結果を見ていたんだけど。

……。

正直、すごいと思った。僕がこれまで挙げてきた数々の疑問を全て吹き飛ばしていきやがった。なんなんだこれは…。こんなものがそこまで大衆に広まらずに眠っていたのか…。まぁ僕みたいに人生について考える人はあまり居ないということなんだろうけどさ。
では最終回始まります。

まず、最初に決めた仮定である「死後の世界は無いものとする」っていうのは、やっぱり間違いであるっていうところから始まるんだよね。まぁ確かに、生きてる意味が無いとすればここまで理不尽なだけの世界ってないなと僕も思うし、生きてる意味が有るとすればそれはもう死後の世界有りきで考えざるを得ないレベルだと思う。

それに、「天国」とか「地獄」とか「閻魔様」とか、そういう言葉がこれほどまでに広まってるのはなんでだっていうのも有るっちゃ有るよね。ただの一宗教の中の設定にしてはちょっと誰もが知りすぎてて怖いなって思うくらいだし。
「生前」なんていう言葉も、よくよく考えるとおかしい。なんで「生」の「前」って書くのに生きてる最中のことを指すんだろう。僕だったら「生間」とか「死前」とか、そんな表現にすると思う。暗に死後の世界があることを指し示しているんだろうね。

で、まぁ死後の世界があるのはまだいい(?)としてもさ、それは百歩譲って有るとしても、でもホントのホントの最初の疑問である「死ぬのって怖いよな?」っていう疑問に対しての答えにはまだなってないよね。
だって死んだあとの世界があったとしても、すんげぇ劣悪な環境だったらもちろん嫌だし。逆にすんごい良い世界なんだとしたら、それはそれで「みんな今すぐ死んだほうがいいぞ!」ってなるからそれもおかしいし。

と、それについての神道の回答としては…
そもそも、基本的にこの世だろうとあの世だろうと、一つの目的があって生きているらしい。それは何かというと、魂を磨くことなんだってさ。一番トップにどえらい神様がいて、みんなそういう偉いポジションになるために必死に修行してるんだとさ。

ただ、普通はなっかなか上に上がれないらしい。基本的に魂だけの存在だから、良いことしようと思ってもなかなかできないんだって。そこで人間の話になる。どうもこの人間界ってのは超のつくほどのボーナスステージらしく、ここで何か良いことしたら凄まじい勢いで上に上がっていけるらしい。

これを見た瞬間、ほぇぇえええ!ってなった。

だって、例えば人生が苦しい理由ってのは魂の修行のためっていうことになるし、いろんな人間がいる中で運や境遇、持って生まれた能力にここまでの違いがあるのも、それまでどれだけ修行してるかによって違うといわれたら反論できないし、そもそもこれで「今すぐ死んでもいいはずだ」という理屈は綺麗さっぱり無くなることになる。ボーナスステージなんて言われたらもったいないもんなぁ。

じゃあ魂が綺麗に磨かれるような良いことってなんなのよ、というと、これが僕が散々に言ってきた「自分の心からやりたいこと」ということにどうやらなるらしい。第一回でも述べた自分にとって使命と思えるようなしっくりくる何か。それをすることでいわゆる徳を積んで、死んでからもよりよい環境を目指して人は努力せねばならんのだとさ。

はぁー…。なるほどねぇ…。こうして人は宗教というものにハマっていくんだろうか…。

僕は別に何かに縋りたい気持ちだとか、ご利益を願うとかは全くないんだけど、確かにそうかもしれないと思わせるだけの説得力があるし、というかそうじゃないとしたらどう解釈していいのかわからないことだらけになるから、そうであって欲しいと僕は思ってるのかもしれない。

というわけで、やっぱり僕らが日々実践していくことは、「自分に素直になること」「やりたいことをやるということ」なんだなぁってつくづく思った。それは充実した時間であることには間違いないし、それ以外の部分でしんどいと思うことがあっても、まぁ自分の魂の修行かと思えば乗り越えられなくもないかもしれない。きついけど。それで仮に最終的に苦しんで死んだとしても、それまでの自分の人生には意味があったんだなって思えることが大切だと思うしね。

神道について触れるのはここまでにしたいと思います。詳しく知りたいひとはいろいろ探してみて下さい。僕はまた日々のいろんな疑問や考え方を検証する日々に戻りたいと思います。
最後に、ここまで読んでくれて、本当にありがとうございました。何か読んでいて楽しいと思ってもらえるところがあったなら嬉しい限りです。

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category: 人間

コメント

全部読みました!
哲学ですねー。とても面白かったです。人類に共通する生きる理由がわかるのか!?とワクワクしました。やっぱり人が生きる理由なんて到底わからないですね。私は自然の摂理ってことで思考停止してます。できれば何らかの科学的根拠があって人は生きていて欲しいところです。

ふと、今日まで精一杯生きたんだし、明日死んだっていいんじゃないかなと思う時はありました。死とかって人間が逆らえるものじゃないし。しょうがないよ。いずれはくるものなんだからそんなに死ぬのは怖がる必要ない。でもおそらく嘘ですね。死を目の前にしたら絶対怖いですね。

そもそも人間に意識なんてあるのかなぁ。自分で何かを考えているようで実は既に決められた道を辿っているだけかもしれない。それとも仏教がいうように魂によって生かされて、魂のために生きているのかなぁ。じゃあ魂はどうしてそのことを直接教えてくれないんだろう。生きなきゃと人に働きかける力があるなら、その生きる理由ぐらい魂が教えられるんじゃないかな。自殺して行く人がいるのは、魂がこの世じゃやりたいことはできないと悟ったのか。自分勝手な魂だなぁ。人の命をなんだと思ってるんだ。この話が事実だとしても魂なんてものは信じられないしすっごく逆らいたいと思ってしまう。否定はできないけど人間が作ったずる賢い概念だなって思います。

すみません、よくわからないことを言ってますが、とにかく面白かったです。ついつい何か考えてしまいますね。

URL | HEY #-
2013/04/19 05:57 | edit

Re: タイトルなし

>>HEYさん

読んでいただいてありがとうございます!
すみません、結局のところ、自力では生きる意味は見いだせませんでした。でも、そうですよね。何かはっきりとわかる形で「このために生きてるんだ!」って思えたらそれが一番いいですよね。

>じゃあ魂はどうしてそのことを直接教えてくれないんだろう。

確かに言葉で「修行のためだぞ」とは言ってくれないですけど、良い事したら気分が良いとかっていうのは、遠回しにそういうことを言ってるのかもしれません。なんかこう、人のために何か出来ることをやって、すごく気持ちが晴れ晴れとすることってあるじゃないですか。そういうすっげぇオブラートに包んだ表現で僕らに訴えてるんじゃないかなぁって。

まぁ推測なんですけどね。僕としては気持ちが晴れ晴れとしてくれさえすれば理由なんて何でもいいと思ってるので、別に魂のおかげじゃなくてもいいわけですが、まだまだ書き足りないところで「魂ってマジでありそうだな…」と思う所がいろいろあるので、今後はそういう部分も埋め合わせていければと思います。
長い文章でしたが、本当にありがとうございました。

URL | ゆとりさとる #-
2013/04/19 09:13 | edit

釈尊の仏教とは違うような。。。

うーん。ゆとりさとるさんは日本仏教について調べたのでしょうか?

釈尊は、この記事で述べているような考えを持っていたわけでなく、「死んだら無になるし生きていることは苦しいことだらけだけど、死の恐怖にしろあらゆる苦しみは、すべて心の持ちよう次第だから、修行して心を鍛えてあらゆる執着心を捨てましょう」的な考えだと理解していました。
方便として、死後の世界があると述べた場合があるとしても、釈尊が本気で死後の世界を信じていたとは思えません。
まあ、釈尊の考えは、現代合理主義の時代にも通用するすごいものだと思うのですが、キリスト教やイスラム教と違ってそれを信じれば直ちに救われるという即効性があるものではないんですよね。。。
私はふと死の恐怖を感じて、眠れなくなることが多いので、将来宗教を信じられるように脳を改造する手術ができたら、是非受けたいと考えています(笑)。

URL | 来年から働く人(ニヒリスト) #nuCxhwjk
2013/04/19 18:56 | edit

Re: 釈尊の仏教とは違うような。。。

>>来年から働く人(ニヒリスト)さん

僕も気になってもう一度見なおしてみたんですが、確かにおっしゃるとおり、どうも「仏教」という括りの教えではなかったっぽいです。どっちかというと日本神道?に近い考え方だったみたいですね。

ただ、「修行して心を鍛えてあらゆる執着心を捨てましょう」というのは聖道仏教というらしく、一方でこの世の摂理を説いて真実を明らかにしたのが浄土仏教というらしくて、浄土仏教では死後の世界も認めているみたいです。
なんかややこしいですね。というか僕が単にこれまで宗教に興味なさすぎてごっちゃになってしまっただけですが;まぁ僕としては誰が言ったかとかはどうでもよくて、要は自分が明るく健康に生きられればそれで良いということなので、どの宗教の教えなのかっていうことは、あんまり気にしてませんでした。
でも仏教じゃなくて神道に訂正しておこうかな。。コメントありがとうございました!

URL | ゆとりさとる #-
2013/04/19 21:40 | edit

毎回拝見させてもらってます。

いつも目から鱗的な話ばかりで
すごく楽しんで読ましてもらってます。

自分の考えなんですけど
なんで生きてるかってシンプルに考えて
親が産んだからやと思うんですけど

どう生きてほしいのか、親に聞いてみるってどうですか?
(感情論で考えてほしいです)
僕はやってみて、だいぶ納得したけど・・・

今後は、理論的な話よりも、現実に起こってる事と「感情」を重視して考察してほしいです。

自分も京大出身で同い年で会社一年目で辞めたものなんで、
共感できる部分が多いので応援しています。

URL | パンツ #-
2013/04/21 00:03 | edit

Re: タイトルなし

>>パンツさん

コメントありがとうございます。ブログ読んでいただけて嬉しいです。

>なんで生きてるかってシンプルに考えて 親が産んだからやと思うんですけど

まぁ現象としてはそういうことですね。

>どう生きてほしいのか、親に聞いてみるってどうですか?

親に聞いてみる…と、それは親の意見ということになってしまうので、僕は参考程度にしか考えてません。もちろん、親孝行はしたいです。産んでくれた親を大切にしたい気持ちはあります。
けれど、本当の親孝行ってなんなんだろう?って考えた時に、それはただ親の意見に沿って生きるということでなく、「自分が元気に、生き生きとしている姿を見せること」なんじゃないかって思うんです。
もちろん、一時的に心配をかけることは間違いないですが、「立派な姿を見せること」よりも、「元気な姿を見せること」の方が最終的に大切だと思って、こんなブログを書いたりしてます。
それであれこれ悩むわけですね。自分が元気になるには、元気に生きるには。
確かにおっしゃるように僕は人間関係というか、人としての感情を無視して考えることが多いので、そこは本当に僕の課題ではあるんですが、今回こんな記事を書いた理由というのは、こういうわけということです。

同い年で大学も一緒ですか!何かの縁ですね。応援ありがとうございます。これからも楽しんでもらえるブログを書けるように頑張っていきます。

URL | ゆとりさとる #-
2013/04/21 03:49 | edit

はじめまして。
「働く」ということについていろいろと思うところあって検索していたら、このブログを発見しました。

すばらしく理性的で素直な考察に感銘をうけつつ、一気に読んじゃいました。
とても感動してます。

生とか死について考えることは、やっぱりいちばん人間らしい行為だと思いますよ。だって動物はそんなこと考えませんもの。

スヴェーデンボルイって科学者の書いた「天界と地獄」という本を読んでみると面白いと思います。amazonで売ってます。
ヘレンケラーが愛読し、鈴木大拙っていう有名な禅の先生も読んでたという逸品です。

URL | ぴのっく #-
2013/05/21 21:06 | edit

Re: タイトルなし

>>ぴのっくさん

コメントありがとうございます。
そうですね、生や死、喜怒哀楽について考えることができる動物は人間だけなのかもしれません。言葉があるということですね。

「天界と地獄」面白そうですね!ちょっと調べてみたんですけど、
「天界に行くか地獄に行くかを決定するものは、あなたが自分の人生の中で「何を行なうか」ではなく、「なぜそうするのか」である。」
という一文があって、まったく同感だなぁと思いました。結局のところ心の問題なんですよね。とてもいい本を紹介していただいてありがとうございます。

URL | ゆとりさとる #-
2013/05/21 21:19 | edit

「生きることがつまらない」という検索ワードから偶々このブログに辿り着き楽しく読ませてもらいました

まず結論の宗教については、誰も死後の世界などそんなものを見たことがないし経験したことがないから論じることはできません
例えば、もうこの世界にも自分にも嫌気をさしたとしてまた死後の世界があるとして上には上がいるとするとしましょう
そこには認識する者がいるので消滅や死んだりはできるとします
するとこの世界に嫌気を指してそっちの世界にも嫌気を指して自殺を繰り返すではありませんか

極度のニヒリズムに陥ってる場合、魂のレベルをあげるのもやりたくない、何もしたくない面倒くさいのですから結局どこに行き着こうが生きる意味などないのです
仮にそういう世界があったとしたらその世界は誰がつくり誰が私たちの意識を作ったのでしょうか?



突然生まれて必要以上にハイスペックに生まれてきた僕達
境遇には天と地ほど差がある

これって僕達より昔の大先輩の恐竜と同じなんですよね
恐竜も他の生物以上にハイスペックで生まれた境遇にも環境や親の強さや肉食や草食や体のデカさなど
天と地ほど差がある

恐竜は物事を思考することはできないが、事実として言えることは地球の一時代を築いたということです
でも結局どんなに頑張ろうが絶滅しましたねw


人間にあてはめると仮に僕達がどんなに発展しようが明日滅びるかもしれない
僕達がどんなに世間に貢献しようがどんな凄い発明品を作ろうが
僕達がどんなに頑張ろうが、いつか地球はなくなり太陽の一部になるかもしれない
そのとき今いる70億以上の人間や生物や建造物がなくなり
人間という知的生命体がいたんだということも誰にも知られないまま終わってしまう世界なのです


それとこの世界が残酷すぎるのは人間が特別ハイスペックに生まれて認識できたとしても不思議ではないシステムだからです
まずこの地球のエネルギー機関が生物同士食いあうことですから…
それに飢えとか病気とかもあるし老いや嫉妬や労働とか人間関係とか
楽しいって気分も脳の快楽物質だとしたら、1日何時間も労働して少ない時間でする楽しい事などとても少なくそのやっている楽しい事もただの脳の快楽物質を満たすものだとしたら……

そして宇宙はとてつもなく広くてと
しかも綿密に物理法則とか数学とか作ってあって
虐めとしかいいようがない設計になってます

主体的にしたいこともないし、無能はできることもない
僕達にやれることなどない例えば生まれてすぐに五感もきかない筋肉も動かない人間だったとして何かできるでしょうか?
そう今死んでも何十年生きようが同じなのです
毎日は同じことの繰り返し永遠回帰なのです

URL | 引きこもりのゆとり #2.mGy5jA
2013/05/22 07:18 | edit

Re: タイトルなし

>>引きこもりのゆとりさん

「そう今死んでも何十年生きようが同じなのです 」「毎日は同じことの繰り返し永遠回帰なのです」
それが事実だとして、でもじゃあなんで僕らは生きてるんだろう?っていうことですね。何十年生きようが同じなのであれば生きる理由なんてないわけで、自殺とか殺人とかしたとしても別にいいじゃないってことになります。
でもそれは「何となく」違うんです。心がそうじゃないって訴えてるわけですよ。だから苦しくても毎日を懸命に生きようとする。その理由は確かにわかりませんが、でも心がそう動く以上、僕らはその意図を汲んで生きるべきなのではないか?って思うんです。意図は汲んであげようと思うんだけど、でもその意図が自分の意思じゃない以上、誰かがそうなるように僕らを突き動かしているような気もしますね。誰かってのは神様というだけじゃなくて、もしかするとこの世界にはいない本当の自分みたいなものかもしれませんけどね。

だから、「生まれてすぐに五感もきかない筋肉も動かない人間」でも出来ることはあるんじゃないだろうか?って僕は思います。必ず理由があってそういう風に生まれてきたんだと思うんです。植物人間だったとしても、言葉も光もわからなかったとしても、でもみんな生きるために生まれてきてるんです。

URL | ゆとりさとる #-
2013/05/22 12:02 | edit

まず宗教というものをご理解なさったほうがよろしいと思いますよ。
宗教は死後の世界などを論じるものではないですから。

死後の世界を良いものと確定する(信じる)ことで、今現在の生き方や行動をより良いものに変えて行くことが宗教の目的であって、死後で私たちが実際にどうなろうと知ったことではないんですよ。
だから論じることができないのではなく、論じる必要がない。
本来の宗教っていうのは人間の生き方を偉大にする崇高なものなんです。

で、私は他のコメントでもそうだけど、価値観を抱いて死ぬべきだとしています。
これは自分の中に宗教を持つということなんですね。別に宗教団体に入れとか言っているわけじゃない。例えばニーチェの永遠回帰などはある種の宗教なわけです。実際に生が何度も繰り返しているかなどはどうでもいい。それを信じ切ることで、今の生を最大に肯定するのがこの思想の目的でしょう。必ず今現在に目が向くようになっている。
で、貴方も永遠回帰という言葉を使っているけど貴方は今現在ではなく、死後だの人間の絶滅後だのを話している。永遠回帰はニーチェがニヒリズムから脱却するために打ち出したひとつの個人的な宗教の形ですから、全く異なる意味なので、別の言葉を使用していただきたい。

ただ、今の時代で宗教というと嫌悪されるんですよ。なぜなら現代って科学的真実に基づいているか、そうでないかが善悪の基準を決めてしまっているからなんです。科学盲信の時代なんですね。でも本来、人間の「信じる」対象の善悪に科学的根拠なんか必要ないじゃないですか。愛や永遠だって本当にはないかもしれないけど、人はそれを信じることで強く生きることができるんです。

現代人ってなんでも科学で説明できると思い込んでるんですよ。宇宙だの生きる意味だのも全部説明がつくと思っている。だからニヒリズムに陥るんです。科学的真実に頼ればこの世の不合理には対処できない、だから、まず科学盲信を捨てろということです。
でも現代は本当にズブズブに科学に浸かっているから私の言っている意味も理解できないかもしれない。

で、科学盲信を捨てて信じるべきものが手に入ったとき、どうなるかといえば必然的に対象に自分を捧げることになるんですよ。
五感が働かない、筋肉が動かない人が例に出てるけど、その人が信じうる世界で持ちうる能力をフルで使えばいいだけですよ。
ニーチェの言う「黄金になれ」ってやつです。黄金はそれ自体、何の用途にも適さないのになぜ他の金属より価値があるのか。それは黄金の特徴である「自らを捧げるだけ」という美しさを人間が感じ取っているからなんです。価値あるもの、美しいもの、自然など生命の充溢するものは大抵自らを捧げてますから。五感なし筋肉動かないじゃ生きてるだけかもしれないけど、いいんですよ。どうなっても生命を捧げるという根本から外れることはないんだから。例えば私なんかは聴覚障害があるんですけど、それがなんだって話よな。聴覚以外の全てで自らを捧げるだけですよ。それが本来の崇高な宗教だと思ってますから。でも特定の宗教を信仰しているわけではありませんよ。
本来の宗教にはニヒリズムをひっくり返す力が備わってると思います。そういう意味でゆとりさとるさんの着眼点は間違ってはいないんだと思っていますよ。まあまずは科学盲信の現代の価値観から逃れることですね。

PS ゆとりさとるさんへ
最新記事(6月23日)を見て反省したことがあります。わたしはいつだかの記事で、辞めるならこう辞めてほしいなどとのたまわったと思いますが、それは間違いでした。辞めたい人の気持ちを無視したコメントだったな、と思います。

URL | 引きこもりのゆとりさんへ #-
2013/05/23 22:01 | edit

引きこもりのゆとりさんへ

名前欄とタイトルミスったww
パスワードを設定しないとダメだったんだな。

URL | 鞠 #6ptzoTTc
2013/05/23 22:05 | edit

>>鞠さん

「本来の宗教にはニヒリズムをひっくり返す力が備わっている」
僕もそのように思います。宗教で掲げられている教えが真実かどうかというのも確かに大切ではありますが、もっと大切なのは「今日を元気に生き抜けるか」という部分であるということですよね。死後の世界がどうのこうのというのは誰にもわからないことだけれど、でもあると仮定したほうが今を元気に生きられるのなら、あると思っておいた方が精神衛生上良いんでしょうね。

P.S.部分について
鞠さんのおっしゃるとおり、信念を持って辞めるのが一番良いことであるのは間違いないので、目指すべき地点はそこなのでしょうね。けれど現実問題としてそこをクリアして退職するというのはなかなか難しいということなんだと思います。

URL | ゆとりさとる #-
2013/05/24 09:52 | edit

人は何故生きるか

はじめまして。ねこ哲と申します。
人生 つまらない で検索していたところ、こちらのサイトを拝見させていただきました。
人は何故生きるか、誰もが気になるところです。
僕は人間の存在理由は進化向上のためであると解釈しています。宇宙の進化向上に順応するためです。
宇宙は無から有を生み出した創造的活動に基づいており、宇宙そのものも拡大、進化し続けています。
人は自分が純粋に成長を感じた時、創造的な活動を行った時に大きく喜びを感じるものです。

と、宇宙の話をしてもパッと来ないので、現在心が感じることについて書きたいと思います。

ゆとりさとるさんの生きる上で「自分の素直にやりたいと感じたことをやる」という主張には少々違和感を感じてしまっております。

なぜなら、このような主張は、「やりたくないこと」というものがあって、それに対比して出てきた「やりたいこと」そのように感じるからです。これに加えて、やることに対して、「意味」や「意義」を求めているように感じます。

僕たちは、なぜだか、自分や他人のやることに「理由」や「意味」を求めます。

これはやる意味があるのか。こんなことやっても意味が無いんじゃないか。

自分が望むようにやることに対して、何となく「意味」を感じ、自分が望まないことに対して「無意味」であると感じます。

このような「意味」・「無意味」に振り回されてしまうと、それこそ、どんな道を選んだ後にでも、自分のやってきたことに意味はあったのだろうかと考えるようになってしまいます。

おそらく、こちらのブログから解釈いたしますと、こちらのブログを通して、一人でも「気づき」を得られる人が多くでれば、それはそれで「意味」がある、という主張が出てくるでしょう。

僕は、こちらのブログのように人生について理解を深めていこうと、今の社会に疑問を感じて、その上で自分の生きる道で生きようという姿勢は素晴らしいものだと感じています。(このような主旨であると、勝手に解釈してしまってます。)

ただ、少々残念に感じることが、ゆとりさとるさんが「意味」や「理由」に囚われてしまっているかなという印象を抱いたことです。これは、僕がゆとりさとるさんの記事を全て読まずにまだ、一部だけしか読まずに判断してしまっているため、僕の誤解であるかもしれません。

僕の中では、社会や環境に疑問を感じるようになった人は、たいてい「意味」や「意義」に囚われるようになる傾向を見てきました。むしろ、「意味」や「意義」を考えるからこそ、疑問が強まり、「何のために」自分は働いているのだと考え始めたかもしれません。

ゆとりさとるさんは勉強ができますので、次の例を出すと少々失礼かもしれませんが、勉強ができない子供の例を挙げます。

高校生ぐらいで勉強ができない子供は、しきりに何のために勉強をするのかと疑問を投げかけ、やる意味が無いのではないかといった勝手な断定をはじめます。

何をやるにせよ、意味を考え始めたら足が止まります。

実際のところ、「意味」や「意義」を考えているふりをして「条件」とか「自分が好きか嫌いか」とか「自分の能力」とかそういったことを考えているのです。

ゆとりさとるさんの「自分の素直にやりたいと感じること」というのは、おそらく、「自分が能力的にやれること」と「自分が嫌いではないこと」という条件の組み合わせになるのではないかと解釈しています。


世の中、なかなか生きづらく感じるかもしれません。見えざるルールが多いですし、どこもかしこもネガティブな印象が飛び込んできます。どんどん心が窮屈になっていきます。このような中では、素直な心は出しにくい・・・。

そして、ネガティブな反応に対して、反発してしまう・・・。

この、ネガティブな反応に対して、形成した価値観は、一見誰もが違和感を感じることに対しての反論であるために正しく感じるのですが、それに固執する可能性があります。

「自分の素直にやりたいことをやる」が正義であるかのように・・・。そうなると、「自分の素直にやりたいことではないこと」が出てきた時に、違和感を感じてしまう。また、「意味」や「意義」を考えてしまう・・・。

社会のシステムを否定してしまうと、社会に戻りづらくなってしまいます・・・。

僕は結局は、「意味」や「意義」とか「正義」とか「正義じゃない」とか「やりたい」とか「やりたくない」とか一切合切を考えない、純粋さ、それが理想的であると感じております。

もう、何も考えない。意味があるとか、意味がないとか。人は、心に悩みが無い時、心に曇りが無い時に、不思議と喜びを感じます。

何もない宇宙のように心を空に。

おそらく、ここまでブログで様々なことを書かれているので、ゆとりさとるさんは僕が今回コメントで書いたことは既に述べられているかもしれません。

長文を失礼いたしました。

URL | ねこ哲 #-
2013/06/30 23:42 | edit

Re: 人は何故生きるか

>>ねこ哲さん
はじめまして、コメントありがとうございます。
>「意味」や「意義」とか「正義」とか「正義じゃない」とか「やりたい」とか「やりたくない」とか一切合切を考えない、純粋さ、それが理想的である
素晴らしいです!僕もその状態を求めてこのブログを書き続けているようなものだと思ってます。それはある種の「フロー状態」という状態ですね。目の前のことにただ集中し、あるがままに生きていく。
ただ、ねこ哲さんの文章の中で矛盾していると感じるのは
>社会のシステムを否定してしまうと、社会に戻りづらくなってしまいます・・・。
という一文です。一切合切を考えない純粋さで生きるのならば、社会に戻るとか外れるとかいうことも考えなくてもいいのではないのでしょうか?
僕らは社会に生きているという価値観は当たり前のように浸透していますが、それも1つの「意味」というか、自分達にとっての「縛り」になっているように感じてます。そして今の日本人にとっての最大の縛りはこの「社会にちゃんと属しているのか」という価値観だと思います。

なので、僕は「やりたいことをやろう」って言いたいんです。確かにご指摘の通りこの考え方も「意味」とか「意義」を生み出す考え方なので、理想とは程遠いと思います。けれど少なくとも、「社会にちゃんと属しているか」という意味や意義からは一時的に離れられると思うんです。そして社会という価値観から離れることが僕らにとって今一番必要なことであるように思えてならなくて、僕はブログを書いています。

URL | ゆとりさとる #-
2013/07/01 21:31 | edit

楽しく読ませていただきました。
僕も、同じ疑問を持って生きていた時期があります。だから、僕なりに出した答えを書かせていただきますね。

生きる意味って、本当は無いんじゃないかなって。
その意味の無い時間に、自分なりの意味を持たせ、自己満足する事が唯一の意味だと思う。
人は必ず死ぬ。その時に後悔の少ない方が良い。その後悔は自分自身の中にあるもので、素晴らしい行いも、愚行も、受け入れるのも自分だし、いつ訪れるか分からない死に対し、少しでも後悔の少ない様に生きることが良いと思います。
あと、死について考えた時、自殺はして欲しくないし自分がしたいとは思わないけど、それも本人が決めた事で、それほどの覚悟の元に至った結末だから、それも止められないのかなと思う。逆に、戦争や災害、事故、病気、殺人など外的要因での死の方が納得出来ない悲しい結末だと思う。
もちろん、人生を全うし、往生しての死が1番良いとして、その時に後悔の少ない方が良いと思う。
僕は、自分の心の声に素直に生きて
後悔の少ない死に方をしたいと思います。

URL | ゴロゴロ #-
2014/01/22 16:06 | edit

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 |  #
2014/08/25 14:07 | edit

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