ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

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発言ってなんでこんなに重いの?  




僕は大学に入って3ヶ月くらいで大学を中退しようと本気で思っていた。なんでかというと、日本の大学教育の在り方が僕の期待していたものとあまりに違ってたから。正直、すごく失望していた。僕はこの↑ハーバード白熱教室みたいな講義を受けたかったんだろうなぁ。
教授が学生に対して問題提起をする。学生は自分たちなりに解決のためのアプローチを探る。必要な専門知識はその都度、自分で調べる。あんまり細かく言うと「日本の大学教育について」というテーマで書けてしまうくらいになるのでやめとくけれど、僕が望む大学教育の形ってそんな在り方だったんだよね。

まぁ、中退すると言った時は当然親には反対されたんだけど、当時は自分のやりたいことや直感・感性をそこまで信じていなかったからそれ以上言い返すことも出来ずに、しぶしぶ卒業を目指して中身の無い学生生活を送ることになるんだけど。部活に入れたのが唯一の救いだったかなぁ…。そういえば、大学1年目で取った単位数は4だった。僕は自分のやる気が起こらないことに対して本当に無力だな。


今の僕がもし当時に戻ってたとしたら、キッパリ中退してると思う。もしくは放学されるまでダメ学生やってただろうなぁ。やる気のないことをするなんてお金や時間の無駄だけで済めばいいほうで、何より精神的にキッチリ疲弊するから僕は嫌だ。そこから回復するのもまた時間かかるしね。

と、それはさておき何が言いたいかと言うと、この「ハーバード白熱教室」の面白さ、その中の1つである「学生の発言が授業を作っていく」っていうことなんだよね。教授がただ一方通行で知識を披露するんじゃなくて、みんなの発言が「場」を作っていく。だから投げかけられた質問に対して、発言者は一生懸命、自分の意見・立場を表現してる。

教育ってなんだよ、ということに関して以前書いた記事で詳しく述べたけど、あの時とは全く違うベクトルとして「教育とは自分の身を守る力を得るためにある」っていう視点で言うと、僕は言葉ってすごく大切だなって思ってる。人間として自分を表現するために、言葉っていつでも欠かせない。いや確かに自分を表現するのはスポーツでも勉強でも芸術でも創作でも、なんでもいいっちゃいいんだけどさ、でも一番ダイレクトに、はっきりと、万人に向けて発することができるコミュニケーションの手段って、やっぱり言葉なんだよね。

自分っていう人間の意思を伝えるためのツールとして言葉は作られたわけだし。だから僕は言葉があって本当に良かった。小さい頃から先輩だろうが先生だろうが親だろうが、大体何でも言いたいこと言いまくってきたけど、それもこれも全て言葉のおかげだなぁ。ありがとう言葉。
でもさ、「言葉は大切だよね」って言うと大体みんな賛同はしてくれるんだけど、その「大切」って僕の思ってる「大切」とはちょっと違ってるんじゃないかって思う。

日本の社会における「言葉の大切さ」って、言い換えるなら「発言の重さ」のことを指してると思う。外国でどうなのかは知らないけど、会見でポロッともれた一言だけで辞職まで追い込まれるのって、何かおかしいんじゃないの??って、僕はいつも思う。その人がそれまで積み上げてきた実績なんかまるで無かったかのように、言葉尻だけを追っかけられて、その一言がその人の人格、人間性、考え方や価値観、そしてこれから積み上げていく仕事全てを表してるかのように報道される。

はぁーぁ。くっだらないなぁ…。何が下らないって、そんな「言葉の大切さ」の認識があるおかげで、偉い人の発言の場とか、人がたくさんいる場なんかでは、表現の幅が一気に狭くなっちゃう。有名人の会見なんか目も当てられないな、と僕は思う。失言するかしないかのチキンレースでもやってるみたいだ。つまんない。

僕が思う「言葉の大切さ」っていうのは、そんな「発言の重さ」っていう意味とはまるで違う。それは「その人の心を表現する力」のことなんだよね。ハーバード白熱教室で発言している学生や教授の言葉は生き生きしてる。それは利害関係やお仕着せの言葉なんかじゃなくて、その人の心をそのまま表現してるからなんだと思う。自分の立場、自分の価値観、自分の意思を精一杯表現しようとしてる。そんな姿に「なんかこれ面白いなぁ」って惹きこまれていってるような気がする。

そういう視点で「発言」ってやつを考えると、日本の教育における先生と生徒の質疑応答って、ほんと出来レースというかつまんないものばっかだなって、振り返って改めて感じるなぁ。だってそもそも答えが決まってるものしかテーマに挙がらないじゃん?だから1人が答えたらもう後の人は答える必要がないし、正解と不正解しかないから、間違えたら嫌だっていう気持ちがどうしても強くなってしまって、なかなか手を挙げようと思えない。
答えが決まらない話題について話したとしても、その発言が「周囲の自分に対するイメージ」を作る要素が強すぎて、やっぱり発言できない。人前でしゃべる一言の価値がいちいち重すぎる。

そんな環境でずっと育てられているから、僕らには「自分の意思・立場・価値観を表現するための言葉の使い方」がまるで育ってない。これってある意味、手足をもがれてるようなものだと思う。だって何か言い返したくても、言い返せないわけじゃん?自分の感情を言葉で表現する機会があまりに少なったから。

日本ってTwitterの人気が根強いし、匿名掲示板である2chも1日2億PVあるらしいし、今じゃ下火かもしれないけどブログもすごく流行った。それってやっぱりみんなの中で何か言いたい、言い表したい心があって、けど現実社会じゃ表現できないもどかしさがあるっていうのが、とても強いからなんだと思う。
「やーい、ばーか」みたいなどう見ても下らないツイートの中にも、その人にとっては何かこう表現したい、世間に投げかけたい心の動きがあるように思えてならない。でも、それが言葉で上手く表現できないから「やーい、ばーか」としか言いようがなくて、けれどそんな発言は誰の心にも響かない。なんだかなぁ…。日本人はネガティブだとかって言われるのも、そもそも舌足らずで上手くしゃべれない、っていうところがあるからなのかもしれない。

今までは経済が右肩上がりで、会社についていけば一定の幸福が約束されてて、それなりに自由のある人生を送れるからそこまで声高に発言する必要も無かったのかもしれない。けど、これからはどう考えても違うよね。個人ができることの範囲が広がって、会社にただ頼ってるだけじゃ生きていけない、何が自分にとって一番いい生き方なのかを自分で見つけて、経済の主体を個人単位で考えなきゃいけない時代になってくる。
そんな時に何が力になるかというと、スキルでもコネでもなく、僕はまず「言葉」だと思う。自分という人間について、自分の価値観や自分の生き方を表現するためのツールが必ず必要になってくる。

自分の気持ちを伝える。伝えるだけじゃなくて、そこから相手と通じ合う、ということが大切なんだと思う。それが本来、言葉がもってる素晴らしい魅力なんじゃないかなぁ。誰かと通じ合うことで、そこから仕事なり趣味なり出会いなり、何かが開けてくると僕は思ってる。
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category: 社会

コメント

コメントするときでも何か間違ったこと言ってないかなとか、この言葉で正しいんだろうかとか、本当に言うべきなんだろうかとか、変に考えてしまいますね。別になんのリスクがあるわけでもないのに。なんだか自分はやはり日本人なんだなぁと思いました。でもこれは単に慎重というだけであって、他人を見る時、何かこう静かに考える様は、日本人らしくて、いいんじゃないかと思ったりもします。

言いたいことを言えるような授業ってとても良い。けど、なかなかそういう授業ってできないですよ。授業内容によっては仕方ないと思います。理系の科目なんかは答えが一つの問題が殆どじゃないですか。ああじゃないか、こうじゃないかと言って、自分の考えが反映されるのは勉強面で同レベルくらいの学内の友人らでの話し合いくらいだったかと思います。先生は自分で導いた正しい答えを求めているからそれに応える努力をしていましたね。
とはいえ、どんな生徒にも本当に言いたいことを言いたくなる、言えるような授業は、すべきですね。口数の少ない生徒も本当は色々なことを考えているのはネットの言葉を見てると本当のことだとわかります。
まとまりがなくてすみません。

URL | HEY #-
2013/04/14 04:34 | edit

Re: タイトルなし

>>HEYさん

理系の授業だと、確かに教わる側が何か発言をするって難しいかもですね。けれど、ただ答えを示すだけでなくて、その数式がどういう意味をもつとか、どんな形で世の中の役に立ってるとか、具体的には言えないんですけど、そういう創造力を掻き立ててくれるような授業なら、楽しいかなぁって思います。まぁそこまでいくと完全に教師の力量っていうことになるんですけど。

僕が大学の講義で不満だったのは、文理問わずほぼ全ての講義で一方通行だったからなんですよね。小学校から高校までもう12年間もやってきた授業の形を、大学になってまでまだ繰り返させるのか…何のための受験勉強だったんだろう…という失望感がハンパ無かったです。

URL | ゆとりさとる #-
2013/04/14 14:21 | edit

興味深くて

ゆとりさとるさん

こんにちは。
あなたのブログがとても面白くて、ここ2時間程読み耽りました。
特にこの記事を読んで思わずコメントしたくなったので書きます。

大学の講義が一体何のためにあるのか、私も疑問に思いました。
私は某大学の大学院を修了したのですが(日本銀行券(おさつ)の某人物が創設した大学です)、在学中に、「大学って何のためにあるの?」と訝った経験を箇条書きします。

①「(担当する)講義が面倒くさい、やりたくない」、「教育に興味がない」

これは私が在籍していた研究科の教授がこぼしていた愚痴と、私の友人が在籍していた別の研究科の教授の発言です。

確かに聴講している人の内で真剣に聞いているのは最前列の一部のやる気(!?がある学生だけで、殆どの学生はスマートフォンをいじるか、寝ているか、そもそも出席していません。こんな光景を目にして教授もやる気を削がれるという気持ちは分からないわけではありません。
それでも、こんな発言を聴いて私は正直悲しくなりました。
大学職員はこの状況を知ってか知らないか、特に何か策を練っているようには見受けられません。(彼らは大学の管理運営部門なので、先生に口を出す立場にないということもありますが、)

②図書館に滞在している殆どの人が資格試験の勉強をしている、あるいは寝ている

私は上記の大学と、明治初期に創設された一応名門とか言われている大学の2校に在籍したのですが、どちらの大学の図書館もこのような状況です。。。。「学問の自由」と謳っていますので、何を勉強してもいいし、何もしなくてもいいのでしょうが、、、それならば図書館にある無数の本は一体何の価値があるのでしょうか。
誰も借りないような本を保管していること自体、学校側にも費用がかかりますし、そもそも図書館が必要とされなくなる時がいつかくるのではないかとも(悲観的ですが、感じました。
「晦渋な本は売れない」とどこかの大学の先生が嘆いていましたが、、これでは誰も苦労して本を執筆しようなどと思わなくなります。(恐らく
学問とは何なんでしょうか。。。

③「某有名ジャーナルに載る為に研究する」

殆どの教授が上記の目的の為に研究しているそうです。(ちなみに文系です)これは学術界で出世する為に必要なプロセスだそうですが、私には正直理解できませんでした。
名前も顔も知らないレフェリーに評価され、運よく掲載されたとしても誰がその成果を目にして参考にするのでしょうか。恐らく目にするのは図書館の雑誌コーナーに来た物好きな人か同分野を研究する一部の研究者だけでしょう。。
勿論それ以外の動機を持ち研究に励んでおられる方もいると思いたいですが、、競争の厳しい学術界で生き残るためには仕方がないのかもしれません。

長々と書いてしまい読み辛いと思います、すみません。

まとめると、私が見た限り、現代は「何故学ぶのか?」の問いに対し、明確で誰もが納得し学問に励むような答えが出せない状況だと思います。一番出しやすい答えは、

「大学に入学し、新卒という資格を得るために卒業する」

「社会に入る前にたっぷりと遊んでおくための場である」

というものになりますかね。。私はこんな状況を憂慮しています。

長くなりましたが、ここまで読んでいただけたらとても嬉しいです。

URL | 人生すみっこぐらし #-
2015/06/19 19:22 | edit

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