ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

子どもの教育に芸術がなぜ必要か  

楽譜




実は先日お便りを頂いて、とある音楽レッスンの教室で先生をされている方から、「こんなテーマで記事を書いて欲しい」というような依頼を受けた。正直すごく驚いて、僕にそんなお堅いテーマで評論家じみた真似ができるのかという疑問と、でも意見を求められては答えないわけにはいかないというか、むしろ答えたいというか。
そんなわけで一つ目の記事として「子どもの教育に芸術がなぜ必要か」というテーマについて書くことにした。

人間なんて何やって生きてもいい。やりたいことをやればいい。
僕の人生観の出発点はいつもそこにあって、何かに行き詰まった時に振り返るのはいつもこのフレーズだ。ニートだろうが総理大臣だろうが、確固たる自分を持って歩んでいくことができるなら、それで十分立派な存在なんだと思う。

ただ、人間ってそこまで単純なものでもないことも確かで、わけもわからず不安になったり虚しくなったり、自分の行動に意味が感じられなくなったり、生きてる意味がわからなくなったり、言わば「人生の危機」みたいなものにいつ出くわすかわからないっていう現実がある。
「人生の危機」はそれは恐ろしいもので、自分に能力があろうがなかろうが、他人からの評価が高かろうが低かろうが、財産があろうがなかろうが、そんなものに意味はないと思ってしまった時点で自分の中には何の意味もなくなるんだから、途端に生きる力を失ってしまうことになる。誰しも意味を感じない行為は続けられないしね。僕自身会社を辞める前後の一年がそんな状態だったけれど、もう二度と戻りたくない、精神のどん底みたいな一年だった。

人として自然に、そして力強く日常という一歩を進めていくという行為は、なんでもないことのように見えてもそんなことはなくて、中空に掛けられた一本のロープを渡っていくかのようなギリギリのところでみんな生きてるんだと思う。だからこそ僕は生きてるだけでこんなすごいことはないなって思ったりもするんだけど。

人生の目的は自立することって以前の記事で書いたけど、なんで自立することが目的になるのかっていうと、この人生というギリギリのロープを渡り切るために、突然襲ってくる不安や人生の危機をはねのけるために、押しつぶされないために、自立っていう力が必要だからなんだよね。

じゃあ「自立」ってどういうことだよと言われると、前回の記事で書いたことだけれど「自分だけの大切な価値観(感性)に従って行動すること」って僕は考えているから、いかに「自分」という人間を知るか、というのが人生を渡り歩くための鍵になってると言ってもいい。

じゃあ「自分」はどこにあるんだよというと、それは間違いなく自分の心の中にあるんだけど、でもその声は小さすぎて普通に生活してるだけじゃ全然聞こえなくて、そうこうしてるうちに理性とか現実っていう言い訳を理由にして、人間は目先の利益を確保しようとしてしまう。そこで登場するのが「教育」っていうテーマなんじゃないかな。

自分っていう人間を知るために、他者がどういう歩みをしているのかだとか、他者の感性はどういうものなのかっていうのを知る必要があって、それが学びっていうものなんだと思う。だから教育の目的は何かと言われれば、知識を得るためでも教養を身につけるためでもない、自分の感性を知るためなんだろうなって僕は思う。知識だとか技術・教養なんてものは確かに生活の役には立つかもしれないけど、残念ながら人生を不安なく渡り歩くのには何の役にもたたない。

ここまで来ると、タイトルにあるような「教育にはなぜ芸術が必要か」っていうのはとても簡単な問題だよね。なぜなら優れた芸術はそれだけでその作者の感性・人生観をありありと示しているわけで、その絵や音楽や文章に触れるだけで自分が今まで見えていなかった自分の心・感性が引き出されるからだ。そうやって引き出された感性は、積もり積もってその人の美学となり価値観となり生き様となり、人生における困難が立ち現れた時にそれをはねのけ、あるいは乗り越え、決断する力になる。それが自立っていうステップなんだと思う。

だから子どもも大人も関係ないように思う。他者と関わることで自分が見えてくるっていうのは何もビジネスやコミュニティだけじゃなくて、芸術やスポーツ、学問においても同様なんじゃないかなぁって思う。
今回のテーマに対する僕の思いというのは、こんなところです。

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category: 人間

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