ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

治験行ってきたのとFXやお金の話  

行ってきました。

と言っても今回は予備メンバーでの参加で、薬を飲んだりすることは無く補欠として一泊してきただけだった。
行ったのはここ

漫画喫茶の施設を広げて清潔にしたみたいな感じの所でただダラダラと時間を過ごすだけの簡単なお仕事。たまには家から出て外で何日か過ごしたいけど色々と面倒な人にはおすすめかもしれない。食事もベッドも着替えも全部向こうが用意してくれて健康診断とかもただ看護婦さんに言われたとおりにやってればいいだけで、診察する時間以外はベッドで寝てようが漫画読んでようがPC触ってようが自由。ただ外には出られないので引きこもる精神力がないとキツイかも。それでだいたい一日2万円くらいもらえた。
以前の記事に書いたように事前に健康診断もあるんだけど5000円×2回分もらえるので、薬飲んだり入院するのは嫌だけど健康診断受けてみたいし小遣い欲しい人なんかはそこまでやってみるだけでもいいのでは。
今回はお試し的な一泊だったけど気が向いたらまたやるかも。

FXについて。
デモ口座で自分の勘と気分を頼りにしたギャンブル手法で500万を1000万にしたあと0円にしたので、なるほどこうやって多くのFX参加者は退場させられるんだなということを理解したのち、いろいろ調べた結果自分なりの優位性のある売買ルールにもとづいて淡々と取引することが重要ということがわかったので自分なりの作戦を立てて過去のチャートからエクセルに入力していきながら売買ルールを作ってなんとかこれでいけそうかなということがわかったので次はデモ口座でそのシミュレーションをしようかなというところでめんどくさくなってやってない。長い一文だった。

なんでいつも軌道に乗り始めるかどうかってところでめんどくさくなるのかというと、僕には本気でお金を稼ぐ理由が無いからだと思う。宝くじ当たりてぇ~とか言ってるけど、多分僕は宝くじが当たっても今と変わらない生活を送ると思うんだよね。お金があってもなくても今の生活を送るんだったら別にこれ以上必要なものは無いわけなので、僕がお金を稼ごうかなとか言ってるのはだいたいその場の気分で言ってるだけにすぎない。もっと言うと、日常を送っていて起きる不安やストレスみたいな感情の波をお金のせいにしてぶつけることで解消してるんだと思う。そうやって精神の安定を保つという手法を採用しているということなんだろうな。本気でお金が必要だと思ってたら四の五の言わずに働いてるだろうし。

自分に無いもののせいにすることで精神の安定を図ろうとするのって多分みんなあると思うんだけど、これが人生における幸福の副作用だと僕は思う。なんか良いことがあるのって後払いか先払いかはわかんないけどどっかで調節されるんだよね。精神的にも物理的にも、いろいろとトータルで見るとみんな別に得してないなって思う。得してる、すごく恵まれてるように見える人はその反面どっかで何かしらを犠牲にしてるし、させられることになる。なので僕の残りの人生の生き方としてはできるだけその波を穏やかに、良いことがない代わりに悪いこともないといった具合にしていきたい。いろいろなことに振り回されるのは疲れるだけのような気がする。

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無職ニートの話  

今年39になるニートだけど、無職ニートは完全に才能です。(新しいタブで開きます)

面白い文章みつけた。似たような感性かもって思う。特にいろいろ捨てて結局ニートに戻るところとか。
僕の場合は退屈とか非生産的なのが好きというよりは、人間関係や生産性が有ると思うことをやっても特に自分にとって良いなって思うことが(トータルで見て)あまり感じられず疲労感が残るだけのような気がするので、消去法として何もしないということをやってるという感じ。何もしないと嬉しいことや楽しいことは当然起きないんだけど、嫌なことや理不尽なことも無く何より疲労感が無いのでとても安定する。
だからやればやるだけ得だなと思うことがあればやると思うんだけど、いろいろ見渡したりちょっとやってみたりしても大体が等価交換みたいな感じなのでじゃあいいかっていう。

最近は暇つぶしを探すっていうことすらもめんどくさくなってきてる。今まではゲームでもアニメでもなんでもハマれるもの無いかなって探しては見つけてハマってを繰り返していたんだけど、一度ハマってしまうとその間は幸せなんだけど終わってしまうと逆にしんどくなるということがよくわかったんだよね。空虚感とかで現実に引き戻されるあの感じ。ハマれるものに出会うことを拒む気はないけど、もう自分から頑張って探さなくてもいいかっていう。abemaTVのアニメchをひたすら垂れ流しながらしょうもないどうでもいいスマホゲーをポチポチして一日を過ごしている。全然おもしろくもなんともないし意味の無さも極まったりという感じだけど、精神的には安定してるかな。

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生きることについて、雑感。続き  

前回の続きから。

人間の生きる目的に答えを提示した宗教の話については、過去にも何回か書いたので今回は省略。これは僕の考えだけど、宗教が出す答えと僕らが求める答えってズレがあるんだと思う。なので多くの人にとってはどちらかというと哲学の話のほうが受け入れやすいのかもしれない。

哲学だと、人間の生きる目的や答えについて結論は出てない。出てないのか出せないのかどっちかは決まってないかもしれないけど、多分出せないんだと思う。例えば…、体のどっかがかゆくなったとするよね。これはかくべきか、かかないべきか。こんな単純でありふれてて僕らが毎日直面するようなテーマに対しても、どんなアプローチを使っても答えが出せないと思うんだよね。

かゆいのをかくと、もちろんそのときのかゆみは解消される。多分、ほとんどの人がかゆくなったらかくものだと思うけど、でもどこまでかくのがベストなのかはわからない。軽くかくだけだと余計にかゆみが気になってストレスになるかもしれないし、かきすぎると傷がつくし。たとえその時はちょうどいい感じにかけたとしても、今度はそれにつられて別のところがかゆく感じてしまったり、これから先何十年と生きていく中でかゆみを感じる度に僕はかかなければならないのかと思うと妙な義務感も出てきたりする。

じゃあかかないのがいいのかというと、ちょっと我慢した程度でおさまるかみゆならそもそも意識なんかしないわけで、かゆいというからには今すぐかきたいくらいかゆいわけで。かきたいと思ってるのに反してかかずに我慢するっていうのは相当ストレスだよね。たとえその時は我慢できたとしてもこれから先どうしても我慢できないかゆみだって起こるだろうし、そうなるともはや体をかくという運命から逃れられないような気すらする。

これは小さなテーマをわざわざ大げさに考察したものだから、別に僕はかゆみが起きる度にこんな深く考えて生きることに迷ってるわけじゃもちろんないけど。かきたきゃ適当にかくし我慢できるならスルーするで終わるけど。でも、明確な答えが出るわけじゃないってのはわかるような気がするんだよね。その場その場でなんとなくやって、そしてその結果がどう自分に影響するかは本当のところはわからない。

結論として、何が正しいのかはわからないっていうことになるんだと思う。僕らはどこまでも目先のことしかわからなくて、それが良かったのかどうかはあとになってみないとわからない。その「あとになって」というのも、10年後か20年後か30年後かでまた評価も変わったりする。だから過去についても未来についても、どこまでいっても何が良いのかはわからない。

でもわからないといってじっとしててもじっとしてることが正しいのかもわからないのでたまに行動してみたりするんだけど、そのときに僕らが何をやっていくべきなのかという問いに対して一応答えを出してるのが宗教や哲学や常識なんだと思う。僕が本当に大切だと思う仏教の話では生きてる上での行動はどうでもいいんだけど、今回はその話じゃないのでいったん横に置いといて。ここでいう宗教っていうのは他のいろんな文化や様式も扱ってる宗教も含めてのものってことで。

今だと多くの人の行動を決めてるのは企業とか国なんだろうね。行動様式のテンプレを用意して、あなたはこの通りにやってくださいよーっていう。そしてほとんどの人が親や世間のやってきた行動を真似して自分の行動を決めていると思う。
それでなんとかやっていけてるんであればいいとは思うけど、僕みたいにそういう普通のやり方に当てはまらない人がどうしたらいいのかというと、ほんとにわからないんだよね。人間の生き方なんてパターンは知れてるとは思うんだけど、見本が無いっていうのはなかなかつらいものがある。何をやるのが自分にとってベストなのかがわからない以上は、手探り状態でいろいろ試してみるしかないんだと思う。

そーいや最近、治験に申し込みした。というか今日その事前検査やってきた。タダで健康診断受けれてラッキーというかむしろお金もらえるので楽。まだ治験に受かるかどうかはわからないけど、受かったらまたブログ書きます。治験で稼いだお金でFXやって全部溶かすまでがテンプレだろうけど、なるべくそうならないようにやってきたいです。

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生きることについて、雑感。  


社会で良い生き方とされるのは欲望を叶えるということだと思う。一番を目指すとか、年収を増やすとか、人脈を増やすとか。人間ステータスの強化みたいな。これがなぜ良いとされるかというと、周りの人にも恩恵があるからだと思う。わかりやすいメリットを増やしていくことで、みんなで麻薬的な気持ちよさに溺れることができる。その時、本人も周囲の人たちも生きててよかったと思うようにできてる気がする。

けれどそれは誰でも出来ることじゃないし、一時期出来ていた人でも出来なくなっていくことがある。そこで新しい価値観として「ただ生きるだけでいいじゃないか、頑張らなくてもいいじゃないか」的なゆるーい思想が現れはじめた。この思想でよく引用されるのはなぜか仏教だと思う。たしかに人生はわからないもので、わかりやすいステータスを伸ばすことをやめて一見ダメそうな生き方をしている人でも周りから見ると意外に幸せそうに見えたりするので、これも一つの生き方として注目されるようになってきた。

この2つの生き方は相反するもののようでいて、実は根本的には同じものだと僕は思う。要するにどちらも一時的で麻薬的な気持ちよさに浸ることを目的としている。前者は社会という他者との関係の中で、後者は自意識という閉ざされた世界の中で、自分はこれでいいんだとか生きてていいんだとか生きててよかったとかいう感想を持ちたくてやってる。多くの人は、この2つのやり方を都合の良い感じに切り替えながらだましだまし生きてるんじゃないだろうか。というか僕がそうなんだけど。

でもこの2つの生き方には致命的な欠陥がある。前者はわかりやすく能力やチャンスが足りなくて上手くいかないとか、弱肉強食によって誰かから奪ったり傷つけたりする必要があるとか、逆に自分がその被害者になったりとかそういう感じ。他者とのやり取りで発生するあらゆる不都合によって幸せを感じられないときがある。後者は他者に邪魔されることも奪われたり傷つけられたりすることもない代わりに、自分に振り回される。ただ生きるだけで十分なんだなぁとか思った5分後には飽きてもう何か別のものを追いかけ始めてたりする。ただ生存するだけでいいというなら植物人間みたいになればいいわけだけど、それができなくてやっぱり何か外部のものを求めてしまう。

どちらの生き方にしても失敗した時は上手く行かなかったなー残念だった~で終わらせられればいいんだけど、そうは問屋がおろしてくれない。人は失敗にとてつもなく苦痛を感じるようになってるんだよね。この苦痛がスパイスになって幸せというご褒美が与えられているようにすら感じる。人間の幸せって苦痛ありきだよねっていう。明るく社交的に生きるにしても仙人みたいに自分の中に閉じこもって生きるにしても同じことじゃないかな。嬉しいことと嫌なことをまぜまぜしながら生きていく。

これをどう感じるか。多分、嬉しいことと嫌なことのトータル収支はプラマイゼロなんじゃないかって僕は思う。もし仮にそうだとすると、人生に価値はあるんだろうか。この問いに対してその答えはわからないとか人それぞれとかいうのが哲学。答えはあるとするのが宗教。

続きはまた気が向いたら。

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久しぶりに思考を書き綴る  

FXを勉強し始めてさっそくめんどくさい気持ちが強くなってきてる。勝つためにはこういうことをすればいいとか色々と考えは出てくるんだけど、実行するまでいかない日々が続いてる。思えば会社を辞めたときも含めて、僕の20代というのはあらゆることが何一つ長続きすることなく終わってしまっていて。唯一変わらずに触れているものと言えばネットくらいかな。
このまま新しい可能性を模索していっても同じことの繰り返しのような気がするので、20代の締めくくりとして(30歳まで2年あるけど)自分なりにその原因について考えてみることにした。

実はこの「何をやっても長続きしない、やる気が出ない」問題については自分にとっての原因がはっきりしてる。ブログで昔に書いたかもしくは寄付企画で書いたレポートに載せた気がするんだけど、僕は大学時代に一つ大きな失敗を経験してる。簡単に言うと、当時所属していた部活での次期主将を決める選挙で負けてしまった。もう少し詳しく書くと、やる気的にも実力的にも先輩やOBはほぼ全員僕が主将になると思っていて、もちろん僕も自分が主将になると思っていたしやる気まんまんだったんだけど、フタを開けてみると僕が一票差で負けという結果だった。このときの衝撃は凄まじいものがあって、めちゃくちゃ取り乱してたことを今でも覚えてる。何がそんなに衝撃的なのかという背景を書き出すと長いので省略するけど、要するに僕にとって天地がひっくり返るくらいの衝撃で、僕の人生における敗北ともいえる出来事だった。

つまり、そこで一つの失敗経験というものをしたわけ。人間って失敗を知らないから突っ走れるみたいなところがあって、一度手痛い大きな失敗を経験してしまうと恐ろしくて二度と同じことに挑戦することができない。で、僕にとってのその時の失敗の本質というか痛みは何だったかというと、選挙で負けたとか主将になれなかったとかそういうことでなく「一つの物事(人間関係)に深入りして裏切られること」に対する恐怖だったんだと思う。

人が何か事を成すのって、実はものすごいエネルギーが必要なんだよね。それは簡単に愛と言ってもいいんじゃないだろうか。とにかくそのことが気になって、自分の心血を注ぎたいっていう気持ち。その形は優しさだったり暴力だったり、表現方法は色々ある。本来の言葉の意味とは違うかもだけど、愛情というのは別に恋人や親子の間だけでなく人間の関心そのものだと言っていいと思う。逆に愛情の反対は無関心・無関係ということかな。

で、人間に無償の愛というのは存在しない。何かにエネルギーを注ぐのは、何かしらその人にとっての見返りがあるからだ。そういう意味で僕は部活を愛していたわけだけど、その見返りが得られなかった(僕の主将としての人格を認めてもらえなかった)ので、それが裏切られたと感じて失敗したと感じてしまったわけ。これは当時の僕は大学が嫌でしょうがなく、自分の存在意義が部活にしか見いだせていなかったので仕方ないと思う。生きている世界が非常に狭かった。

それからというものの僕は何か一つの物事や他者に対して深く関わる(愛する)ことが出来なくなってるなと思う。自分の中でここまでならOKというラインがどうやらあって、それを越えて関わられることに対するリスクに過敏に反応してしまう。仕事でも人間関係でも、そこを超えると僕の人生にとって無くてはならない存在となってしまうという一線を前にして、急ブレーキがかかってしまうわけだ。これは意識とか考え方でどうにかなるものではなく、まぁトラウマっていうことなんだろう。今思えば僕が会社を辞めた理由は、労働環境がどうとか仕事内容がどうとかじゃなくて、もっとシンプルに深く関わりたくなかったからなのかなって思う。もし深く関わる気があったなら、悪い労働環境であれば自分が出世して変えていこうとか、むしろそういう前向きな理由になっていく。出来る人は常に前向きとか自分から動くとか言うけれど、要するに愛があるんだよね。その物事に対してエネルギーを注ごうという姿勢があるかないか。それが出来る人と出来ない人の境界なんだと思う。

なので同じ「会社を辞めた」と言っても、僕のように人間や物事全てに対して深く関わろうとしないパターンの人間と、単に労働環境や仕事内容が合わなかった人とではその後の行動に大きな違いが出る。それは何かというと、後者のような人はいずれ自分に合う環境と出会って再就職していくということだ。僕の場合はそもそも現在の働くということが多大にエネルギーを投入する行為であり愛情を注ぐことを求められているように感じられるので就職することは出来ないというわけ。ちょっと気が向いたときに片手間でやってあっさりとした関係で終われることであれば、続けられるんだと思う。でもそれって愛情を注がずに結果だけ欲しいっていうことなので、矛盾しているんだけれども。

愛情を注ぐ(エネルギーを注ぐ)っていうのは、いわば人生における投資そのものだと思う。自分の人生の時間・労力といったものを注いで、そこから何かわからないけどリターンを得ようとしている。投資というからにはリスクがあるし、上手くいかないことがある。なんでかわからないけど僕にとっては部活の失敗というのがえらく人生において本質的で危機的な失敗だったらしく、10年近く経った今でも影響を残しているんだと思う。その失敗から僕が学んだというか感じたのが、「自分の人生に無くてはならないと思うほどのものをもつことは危ない」ということだ。アイデンティティの崩壊の辛さというのはちょっと他に例えられる気がしないくらい僕にとっては強烈なことということなんだろう。お金が無いとか孤独だとか、そういう辛さよりも「この人が居ないと、この仕事が無いと生きていけない」という状況の方が僕にとってリスキーということ。

でもそれって実は幸せと言われることの裏返しでもあるんだよね。自分の人生に無くてはならないと思えるものと出会えるなんて、とても幸せなことだ!っていう見方もあるわけなんです。まさにそのとおりで、僕の10代は幸せだったなと思う。自分に関わるいろんなものに上手く愛情を注げていたし、見返りも得ていた。けどそれにはリスクがあるとわかったのがその部活の一件だったということ。

で、どの考え方が正しいとかはどうでもよくて、つまり問題は今の僕は物事や人間関係に深く愛情を注ぐことが出来ないということだ。その上で生きていくにはどうしたらいいかをずっと模索しているんだけど、答えが見つかってないっていうのがこの10年の結論。まずお金を稼ぐという行為が、多大にエネルギーを要する。ちょっとおもしろそうなアプリゲーでもダウンロードして遊んでるだけで稼げるみたいな感じだったら良かったけど、そういうふうには出来てない。最近ではFXという手段に行きついたけど、これもちょっとやったぐらいで稼げるような簡単な感じではないし、勝ち組になるための道のりを考えると結構な愛情を求められる気がしていて、めんどくさいと思ってるんだよね。これで話が最初に戻った…。

働くのめんどくさいという一言で済む話をここまで膨らませられる自分の言い訳能力を何か活かせないだろうかと考えたりもするけど、上手くいかないね!あ~宝くじ当たりてぇ~働くの無理~少しの衣食住とネットだけあれば生きていけるけど、まだ多くを望みすぎかな~~

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FXをやってみようかと  

思ってます。前回は勉強を教えることをやろうかなと書いてたんだけど、色々考えてやっぱりめんどくさいという結論にいたってその案はボツとなりました。

結局、2016年という年は一秒も働かない年だった…。対外的に取り組んだことと言えば夏にネトゲでギルド作ったことかなぁ。3ヶ月くらいで人間関係の限界というか飽きを感じてやめた気がするけど。なんだか、一年の中で自分に周期的な飽きとブームが来るのがよくわかるようになってきた。基本的に冬は誰とも関わりたくない。そして春を過ぎて夏になってくるとやたらと誰かと関わりたくなる、とか。今までもその時期は住み込みのバイトやったり集まる会やったり旅したり。で、秋くらいになると疲れてひきこもる。その時の自分の感情によって世界の見え方がまるで違う。今はほんとに誰かと関わる気になれない。

けど、さすがにそろそろお金を稼がないとヤバイということになってどうしようということなんだけど、人との関わりがなくお金を調達する手段となると投資という手があって。適当にやっても継続的に勝てないことはデモやってわかったので、どうすれば勝てるのか・勝てる人はどんなこと考えてやってるのか、正直FXなんて何の興味も無いんだけど色々と情報を集めながら取り組んでます。
で、最近ひとつその案が出来上がってきたのでこれからもっと検証を重ねて、いけそうなら実際に運用してみようと思う。

それ以外でやってることと言うと…相変わらず昔のゲームやったりyoutube見たり音楽聞いたり囲碁打ったり。特に誰かがいないと寂しいとかも無く、何かやって飽きては他の暇つぶしをやってまた飽きての繰り返し。そうやって人生が終わっていくことに対して思うこともなく、色々とあくせく考えたり働いてみようとしたりしても、結局何やっても終わってみれば一緒だよなぁとしか思わない。できれば穏やかに過ごしていければいいなぁってくらいだろうか…。そんな感じです。

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