ゆとりさとるの日々

人として自然な生き方を目指す

VRでも買ってみるか  

みなさん、いかがお過ごしでしょうか。僕は相変わらずです。しかしここ2~3年、ほんと他者とのコミュニケーションが億劫になってきております。もともと社交的な性格ではなかったけど、それでも以前はオフ会を開いたりボイスチャットしながらゲームもしていた。それが今やだれとも会話しなくても全く違和感がないくらいになってる。なんか、コミュニケーションを取る楽しさよりも疲れのほうが重くなってきてるんだよな。はぁ。

そんなわたくしですが、完全に一人でいるというのはやっぱり寂しい。好きなゲーム配信をみたり実況を流したりしないと孤独を感じてしまう。何かに依存しないと生きていけないものだなってつくづく感じる。それは僕だけじゃなくて、誰しも何かしら現実逃避であったり依存する先があるんじゃないだろうか。嫌なことや辛いことを忘れられるささやかなひととき、そういうものを僕らは常に探し続けているんだろう。

ところでこの春にVRメーカーで有名なOculusから新作のVRヘッドセットが発売されるんだよな。僕はゲーマーでありながらもVRというジャンルにはまだ手を出して無くて、今後の僕の暇つぶしとして大いに活躍してくれるんじゃないかと期待してる。生命維持装置のついたカプセルみたいなのに入ってバーチャル世界に没入しっぱなしになるのが僕の夢みたいなところあるんだけど、それに向けた大きな一歩になるかもしれない。うぉおおおおお!!みんなも興味ある人はVRやろう。

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運命は決まっているのか?について考えてみた  


みなさん、運命について考えたことありますか?僕はありません。そんなことより今日のご飯のほうが気になります。なので今回は果たして僕らの運命が決まっているものなのかどうなのか、真剣に考えていきたいと思います。

さて、とはいっても運命なんて未来のことも含まれるわけだし、それが決まってるのかどうかなんて僕らに知る方法はない。そこで「今、僕らに自由意志は存在するのか?」を考えてみることで、運命が決まっているのかどうなのかを判断してみよう。なぜなら、僕らに完全に自由な意思というものがあるのなら未来はいつだってその場で変えることができるはずだし、逆に僕らの意思が全て決められたものであるのなら、運命もそれに応じて決まっているものであると考えられるからだ。未来について知ることはできないけど、今をみることで未来について予測できるというわけだ。

じゃあさっそく自由意志があるのかどうかについて議論しよう。まず自由意志とは何かというと、誰からも何からも干渉されない純粋に自分から発せられた意思、ということだ。これを聞いてまずパッと浮かぶのは、誰かから強制されたりやりたくないことをしているときは自由なんて無いって感じるけれど、やりたいこととか好きなことを好きなようにやっている間は自由であるなと感じるということ。なので誰からも邪魔されない限りは自由な意思は存在するんじゃないかなってまずは思うわけなんだけれど。

しかしここでめちゃくちゃ微妙な反例をあげてみたいと思う。それはトイレだ。そう、トイレ。今まで普通に生きててトイレを一度もしたことないという人はいないだろう。そしてどれだけ個人の主張が許されない場面においても、トイレに行きたいというのだけはまず間違いなく許されることであって、自分から我慢するということはあっても誰かに邪魔されるというのはほぼありえないといっていい。つまり僕らにとってトイレに行くというのは限りなく自由であることを許された行為だ。

ここで問題になってくるのが「トイレに行きたいと思うのは自由意志なのかどうか?」だ。これはめちゃくちゃ微妙な問題だと思う。確かに僕らはふと、「トイレに行きたい」と思う。「行きたい」というからにはそれは自分がやりたいことなのであって、そしてそれは自由に行えるものなのだから、そこに自由意志は存在していると言えなくもない。けどトイレって人間の体の仕組み上しょうがなくやっていることなのであって、それをしたいと思うことって自由意思なのだろうか?とも言えるんだよね。もし人間の体が一切排泄をする必要がないような仕組みだったとして、それでもトイレをしたいと思う人がいるか?というと、おそらくそんな人はいないんじゃないだろうか。

つまりここで言いたいのは、「やりたいことをやってるんだけど自由な意思というわけではない」、そういう例が存在するということなんだよね。トイレに限らず肉体的な衝動っていうのは、わかりやすいところだと思う。例えば僕は昼寝をするのが好きなんだけれど、それは眠いときに寝るのが心地いいというだけであって、眠気がないのに寝たいとまで思ったことがない。つまり純粋に睡眠という行為を愛しているわけではないんだよね。体に求められて、そこに感情が反応して、しょうがなくやっている。そんな感覚が強い。

じゃあ肉体的な束縛を受けない行動、つまり精神的だったり感覚的な欲求であれば自由意志なのだろうか?例えば好きな色が赤色だったとして、それは自由意志なのだろうか。同じ商品のいろんな色がある中で、その人は必ずいつも赤色のものを買う。赤色が好きだから、と本人は言う。それは自由な意思と呼べるだろうか。おそらくほとんどの人は「それは自由な意思なんじゃないか?」って感じると思う。だって別に他の色も選べる中でわざわざ赤色を選んでるのは本人なんだから、それは本人の自由な意思の結果でしょ、と。

さて、ここから先は哲学の領域でも意見が分かれるらしいけど、僕はそれでも完全に自由な意思とは呼べないんじゃないかって感じる。なぜなら、その人が赤色を好きな理由がわからないからだ。ちょっとみんなも考えてみてほしいんだけど、仮に自分が赤色を好きだったとして、じゃあなぜ好きなのかを完璧に説明できるだろうか。普通は説明できないと思う。ただなんとなく、今まで生きてて赤色を見るとテンションが上がってきたので、赤色が好きっていうだけ。自分は赤色が好きな人間として生まれ、赤色が好きな人間として生きよう、と「自分で決めて生まれてきた」のなら、それは自由な意思であるといえるかもしれない。けど、僕らはそんな選択をして生まれてきたわけじゃない。よくわからないけど、自分の中の何か得体の知れない衝動によって赤色を求めているだけに過ぎないよね?

恋人とか家族とかお金とか趣味とか名声とか、僕らはそういったものを求めるようにもなっているけれど、それがなぜかわかる人はだれもいない。ただ、欲しいから求めてる。けどそれじゃ完全に自由な意思とは呼べないよね。感情に振り回され、流されてるだけだと言われて、ちょっと反論できない。けどもし僕らに自由意志がないのなら、はじめに書いたように運命は決まってしまっていることになる。おそらくだけど、運命は決まっているものなのだろう。詳しくは書かないけど、仏教においても言われていることだったりする。

だけど、人間ってすごいんだよね。ここまで書いてきてなんだけど、運命が決まっているかどうかなんて正直どうでもいいんだよね。本当の意味で自由かどうかなんて関係ない。僕らにとって重要なのは「自分が自由であると思えるかどうか」なんだよね。実際には水が高いところから低いところへ流れるがごとく当然の成り行きだったとしても、僕らが「それは自分で選んだ」とか「自由にやった結果だ」と思えれば満足だと感じるし、逆に本質的に自由だったとしても「誰かに無理やりやらされた」と感じれば不満がたまるし苦痛になる。

僕らは無知であるがゆえに、そこに自由が生まれるんだろう。すべてを見通せれば運命が決まっているとわかるのかもしれないけど、僕らにはそんな力はない。だからこそ、自由を感じられる存在でもあるんだろう。人間って最高!!



なんだろうな、この記事。

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コメント返しが長すぎて新しく記事書く  

前回の記事で、ニートン氏から

多くの人が自分にも出来そうと思えて、現在の会社員という生き方よりコスパの良い生き方だと思える人生モデルになってる気がする。低負担で得られる幸せは通常の会社員より多そうだし。
問題は結婚できる確率は相対的な優劣によって上下するので年収が相対的に低いと難しくなるんだけど、結婚とか異性関係への執着を無くすのは難しいってことかな。
さとる氏はこの辺どう考えてるの?



という質問をもらった。返事を書いてたらやたら長くなってしまったので、この際記事にしてしまおうということで。

まず今の僕には結婚願望はない。それは家庭を築くということが、楽しみも多いけどそのために払ってる代償もかなりのものがあるということを知っているからだ。その代償というのは、他者と足並みを揃えて生きていくことの難しさということにほかならない。
僕は今でこそこうやって実家での怠惰な半ニート生活を送っているわけだけど、それにはもちろん同居人である親にその生活スタイルを受け入れてもらう必要がある。住んでる家が親のものなんだから親に出て行けと言われれば出ていかざるを得ないし、就職しなきゃ一人前じゃないみたいなこと言われたら居場所がないし、親との良好な関係を築けないと安心してこんな生活を送ることはできないよね。なので僕は常に親との関係には配慮してるし、親に何かあったときにどうにかするのは僕の役目だと思ってる。

そんな僕が今みたいな親との良好な関係を築くのにどれだけの労力をかけてきたかと言うと、まぁ言ってみれば生まれてからということになるので30年かけてきてることになる。小学生や中学生の頃は口喧嘩もしょっちゅうあったし、今でも思い出すとなんだか腹が立ってくるようなことだってあったりする。けどそれでも家族だから、という理由でなんとかグレずに歩み寄りの努力を欠かさず、ようやく今こうしてある程度自由に生きてても文句を言われない、お互いにほどほどの適した関係を築き上げているわけだ。だから僕はある意味、自分のことはプロ子どもであるとも思っている。

世間一般的には成人すると自分のパートナーを探して家庭を築くというわけだけど、この努力を全く新しい他人ともう1回やれと言われたら、とてもじゃないが僕にはもうそんなモチベーションは無い。生活の仕方なんてそれこそ100人いれば100通りあるわけで、共同生活すればそこに摩擦が生まれるのは当たり前のことなんだよね。そしてその都度、お互いの妥協点を探りつつ歩み寄る努力をお互いが行っていかなきゃいけない。婚姻数の約3分の1の離婚数が毎年あるらしいけど、家庭を築くってそれだけ大変なことなんだなぁ、というのが想像できてしまうんだよね。

とはいっても、もちろんその代償に見合うだけの価値があるから家庭を望む人が多いのも事実だ。人はどんな形であれ自分の居場所がないと生きていけない。家族とか恋人は他の人間関係に比べて結びつきが強いから、そこに居場所を求めるのは自然なことだと思う。けど僕は払う代償と受ける恩恵はトントンになってると自分の経験から感じるから、積極的に結婚したいという意思は今のところ無い、というのが結婚に対する考えだなぁ。結婚する流れがきたらその流れに沿って結婚することもあるかもしれない、というぐらいの感覚だ。

ただ、もし結婚するとなっても、経済的な理由で結婚できないっていうことにはならないと思う。そもそもお金が無くて結婚できないっていうのはちょっと変だなと思う。婚姻届は紙を出すだけだし、生活にしても二人で一つの家に住むわけだから負担も半分ずつだ。専業主婦を養うとかマイホームを買おうとか考えるからお金がいくらあっても足りなくなるというだけであって、身の丈にあった生活を心がければ一人であれ二人であれ問題ないんじゃないかな。離婚理由を調べてみてもお金がなくなったからというのは見当たらなかった。

こんなところだろうか。とにかく今の僕は軽く薄く、淡々と生きていくことしか考えてない。常に疲れているというか、もう満足、みたいな感覚があるからそんな感じなだけで、元気になることがあったらまた変わるかもしれないけどね。

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リアルな月々の収支や一日の行動など  

前回の記事で質問もらいました。

実家暮らしですか?

私はニートから簡単な仕事をして生きていこうとおもいますが
将来的な家の修繕費用を貯めておかないといけないとおもっています。

その辺が不安で、今はまだ貯金額が少ないので
貯金が少しづつ増えていかないと不安が解消されませんね。

ゆとりさんは月にいくらぐらいお給料もらってますか?
年金は払っていますか?

ニートさん



このブログでは価値観とか考え方とかばっか書いてきてたけど、それ以前にそもそも僕がどういう生活しててどういう見通しで今の生き方してるのかみたいなところが気になる人もいるだろうということで、リアルな収支と日々の行動、あと今度の見通しについて書いておこうかなと思います。

~収支について~

今は1日4時間半程度のパートを週5日午前中にやって、あと週に1回だけ1時間半の家庭教師もやってます。これでだいたい月収10万くらい。なので年収120万。ここから月々の出費を差し引いていきます。

まずは食費や日用品など、スーパーやコンビニで買い物する分。これが大体月に2万~2万5000円くらい。ガチニートだったころは月1万円で満足できていたのに、働いてるせいか余計に1万円ほど出費しなきゃ我慢できない体になっちゃった。

食事に関してはお昼ごはんとお菓子や酒やらを買うくらいで、夜は親が作ってくれてるのでかなり助かってる。あとスマホ代(毎月1000円ちょっと)とゲーム買ったりする趣味代(0円~たまに2万円とか)、まれに購入が必要な衣料品とか自転車とかPCやスマホみたいな家電製品などのための積立金を月々1万円として、おおよそ僕の毎月の出費というのは平均すると4万円くらいになる。

あとは年金が1万6000円と健康保険料をあわせておよそ2万円。なので毎月の出費は合計で6万円くらい、年間だと70万円ほど。
というわけで一年の貯金はおおよそ50万円から少なくとも40万円くらいはあるかな。家庭教師はいつまでやるか知らんけども、パートは60歳のおばちゃんも働いてるくらいなので、もし仮にその年(30年後)まで今の生活を続けることができるならおよそ1000万以上の貯蓄にはなってるはず。

そしてその頃には親が死んでるんじゃないかと思うんだけれど、遺産は残してやれないが借金も残さないようにするという親の言葉を信じるならその時点での経済的損失はゼロなので、残った20年~30年の余生を1000万+年金で賄っていくという計算になるわけだ。

そこから家の修繕費とか維持費とか自分がどれだけ健康でいられるかとか様々なマイナス要因が発生するわけだけども、そこまでの予想は流石にできないので現状はとりあえずこれでなんとかなれといった感じ。


~日々の生活について~

お金については以上で、ここからは今現在の僕の1日について書いていこうと思う。といっても基本はニートの頃の生活と同じなんだけども。

まずパートに行く日は8時くらいに起きて、8時半に出勤、13時まで働く。仕事内容はお弁当詰めたり惣菜作ったりなんだけど、季節によってメニューは変わるしポジションも5つくらいある中でのローテーションなので、意外と飽きるということがない。ただ朝起きるのがだるい。僕の1日の不幸のピークは起床~出勤して着替えるまでの20分くらいに集約されてる気がする。

しかしパートというのは本当に気楽な身分だと思う。責任なんて微塵もないから商品が売れようが売れまいが関係ないし、働いてる層がおばちゃん中心なものだからあくせく働かされるということもないし、僕の場合は接客することもないし、基本的には黙々と作業してるだけだから他人に気も遣わないし、しんどいときがあってもとりあえずお昼まで働けばあとは自由だし、ただ朝起きるのがだるいという以外はこの日本において最もコスパの良いポジションだと思う。

そして帰りにスーパーに寄ったり寄らなかったりして家に帰る。帰ってからはお昼ご飯を食べるんだけど、様々な食料を試してきたなかでコスパ・味・栄養・胃腸への負担・食べた後の満足度・飽きのきにくさ、などなど総合的に見た中で最も優れた食事は納豆ご飯だという結論に今は至っている。値段対カロリー比でいうならパン食もいいんだけど、一時期馬鹿みたいにパンばかり食いまくってたら胃腸の調子がおかしくなったので僕にとっては米のほうが良いらしい。しかし食事というのは奥が深いよね。ご飯だけでなくさらにお菓子や飲み物まで計算にいれたベストパフォーマンスな食料の組み合わせというのはなかなか結論を見出すのが難しく、それを見つけるのが僕のライフワークの一つといえるかもしれない。
パン食の他にも馬鹿みたいにグミばかり食べたり肉ばかり食べたり逆に野菜ばかり食べたりなど、様々な試行をしてきているのでまた暇になったらそのへんの話についても書くことがあるかと思う。

さて、ご飯を食べたら現在3つほど同時進行で遊んでいるソシャゲのデイリーをこなす。普通に働いてたり学校行ってるような人からすればきっちり遊べるソシャゲなんて一つくらいのものだろうけど、僕は暇人なので3つできる。ソシャゲの課金はゲームの寿命を縮めるという持論があるので、スムーズに遊ぶための最初の課金を少ししたあとは基本的に無課金で遊ぶ。一番長く遊んでいるソシャゲで1年半くらい、使ったお金は多分2万円くらい?だから相当なコスパだと思う。
まぁソシャゲなんてただの作業だけど、植物の栽培をしているような感覚で少しずつ積み重ねていく小さな楽しみがあるよね。

ソシャゲもそこそこに遊んだらたいてい昼寝する。1時間~2時間ほど。この瞬間が僕の1日の幸福のピークだ。仕事もしたしご飯も食べたしゲームもしたし、あとは疲れて寝る。これ以上に望むべき瞬間などない。人間の一生なんて消費しては生産・回収してまた消費しての繰り返しなだけなのだから。

夕方に起きたらYoutubeで好きなゲームの実況者が動画を上げているのでそれを見ていると晩ごはんの時間になる。あとはお風呂に入って、ゲーム配信をラジオ代わりに流しながら自分もゲームをしたり漫画を読んだり、気になったどうでもいいことを検索したりして寝る時間になる。

この半ニート生活のポイントは低負担、低刺激であるということだと思う。労力や気力を極力少なくするかわりに、得られる幸せや興奮も少ない、そんな生活だ。もちろん人間なので孤独感を覚えることはあるけど、好きな配信者の動画でも流してればたいてい気にならないし、そもそも一晩寝ればどんな気分でも必ず変わる。やろうと思えばやりこめるゲームはたくさんあるので時間が余るということもない。いろんなことを毎日少しずつやっているので飽きたり疲れることも少ない、低燃費サイクルだと思う。

こんなもんかな?半ニートな人間の生活、いかがだっただろうか。また気が向いたらこの生活について書くこともあるかと思うので、お楽しみに。

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明けました  

たまには更新しよう。

また一つ年が変わって、僕もいよいよ30代に突入する年になりました。23歳で会社を辞めた年から始めたこのブログもそんなに時間が経ったんだなーと。

今は相変わらず近所のスーパーでお弁当とか作って過ごしてます。午前中だけ働いて、午後は昼寝したりゲームでもしながら時間を過ごす。穏やかでやることがなくて、ただただその日一日を生き延びていってる…という感じ。浮き沈みの無い生き方がしたいと以前書いていたけれど、まさにそのとおりになってきていると思う。

将来どうするとかどうなっていきたいとか、何を手に入れたいとか、そういう感情と少しずつ距離をとっていければいいな。世間的にはそういうものがあることが推奨されるわけだけど、それはやっぱり違うんだなと僕は感じている。何かをしたい、せずにいられないというのは、不安の裏返しであると思う。不安があるからそれを取り払えたときの幸せもあるんだけど、そもそもが不安を抱えているというのはやっぱりよくない状態だ。

もちろん僕には不安がないのかというと、そんなことはない。探ればいくらでも出てくるし、ふとしたきっかけでそれが表面化して、不安に悩まされて憂鬱な気分になる日もある。あるんだけど、そうなったとしても極力それに触れないように静かにしているのでなんとか気にならずに生きていけている。

誰しも根底には不安や悩みがたくさんあって、それが解消できればいいなと思っているよね。解消することで自分の人生は向上し、以前の自分とは違う何か素晴らしい存在になれると考えている。けどそれは間違いだ。不安や悩みを解消して得られるのは一時的な幸せ(興奮)であって、根底にある闇のような深い不安はどうやっても取り除けるものじゃない。むしろ幸せであればあるほどわずかな不安が際立ってしまって、ささいなことで崩れ落ちてしまうものなんじゃないかな。

だから僕らにできるのは、いたずらに不安や幸せといった刺激に手をださず、たまたま今手に入ってるものに満足して今日という一日を生きることだけじゃないだろうか。結局のところそれが最善であるように今の僕には思えてしまう。かゆいところがあってもかいちゃいけないって言うじゃない?ああいう感じ。かけば確かに一時的に満足できるんだけど、その後に余計にかゆくなってきたり傷になっちゃったりして、何度も何度もかくはめになってしまう。かゆくなってしまったものはしょうがないんだけど、できる限り触れずにそっとしておきたいんだよね。

そんなふうな視点で自分の日々を見ていると、心の中に起こる出来事のほとんどは気のせいというか一時的な感情の波によるものであって、そしてそれに振り回されて大変な時間と労力を消費しているんだなって思う。落ち着いて、穏やかに生きていこう。今年の僕自身に向けた抱負というか目標という意味も込めて、こんな記事を書いてみました。

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